Organ works of Rheinberger

Harvey Grace (1874–1944)


 この項は20世紀前半に活躍したイギリスのオルガニスト兼音楽評論家、ハーヴェイ・グレイスによるラインベルガーのオルガン作品の解説を試みに訳したものである。ラインベルガーの音楽はオルガン物も含め、20世紀になると忘れらてしまったが、グレイスが属していたNovello社からもオルガンの楽譜は出版され、またイギリス・アメリカ出身の弟子たちによってその作品が紹介され続けたので、英語圏では人気が高かった。何にもましてこのグレイスによるオルガン作品解説が1925年に出たことが20世紀でのラインベルガー復権の鍵になっていたとこのである。ゆえにラインベルガー研究の一環とし読むべき書物の一つであろうと思い取り寄せてみた。基本的は新刊はなく、古本でしか手に入らない模様。ただしどうしてもWebMasterは語学に不自由していることと、読まなければならない大量の資料があるため、かなり中途半端になっている。でもせっかくだから少し公開し、皆様からのご助力を賜り、なんとか日本語訳を作成してみたいものだが、どなたか奇特な方はいらっしゃらないでしょうか?

 グレイスたちがNovello社で出版した楽譜を「あいつらのは独善すぎる! 何の根拠もない」とガンガン批判するオルガニストいたりするでの世の中は面白いよ。

 とりあえずは序文の一部と、いくつかの曲の解説の第一段落を訳してみた。興味のある方はご連絡ください。つーか訳して(ToT)

※2019/Sep/27

これまで翻訳を諦めておりました、ソナタNo.1、No.3、No.5、No.10、No.15、No16、No.18の7曲の各解説の第一段落を一気に訳してみました(No.5とNo.10は1年前には終わっていたのですが放置しておりました)。またNo.13のみ最後の2節が難しいため、まだ公開が出来ません。誰か訳して(ToT)しくしくしく

※2019/Sep/28

前奏曲の2部と3部も公開しました。第2部の「海辺(sea-shore)」だけ意味がわかりません (ToT)しくしくしく。

訳がおかしい点ありましたらご指摘ください。

※2020/June/20

え~、まったく歯が立たなかったNo.13の第一段落の最後の2節をなんとかしてみましたので公開します。

※2020/Jun/27

「小曲集」のコーナーがなんとかなりましたので、以前訳していた「オルガンとソロ楽器作品」とともに第一段落を公開します。ページの一番下になります


序文

 本書の内容はミュージカル・タイムス誌(Musical Times)の967 巻から975 巻までの再版である。

 

 オルガニストではない、もしくは楽器のレパートリーに興味がある読者は私にこう問うかもしれない、「なんでラインベルガーなんだ、単なる三流の作曲家じゃない。一冊奴の専門書を出すの?」

 

 その問いの答えとしては3つある。1.オペラ、オーケストラ、そして室内楽に関して言えば、ラインベルガーは三流の作曲家といえるかもしれないが、オルガン音楽に関しては一流の人物である。2.その大量のオルガン音楽は、オルガンを学ぶ学生の真剣なカリキュラムの一部となっている。3.後続の章の中で記載した理由により、イギリスでのオルガンの効果的実演は多くの考慮を必要とする。

 

 ラインベルガーは味気なくて学究肌な作曲家だという見解は、彼のオルガン音楽の完全な知識を持っている人たちは持っていない。そのような知識を持ち合わせない方々には、本書で示している音楽の例を検討することをお勧めする。これらの短い抜粋だけで、わずかの知識を持つ人たちへの最良の回答となる。彼らは、鈍い犬のように簡単に作曲者側に翻る。

 

 主張の言い方について、気遣いしすぎると感じる読者もいるかもしれない。著者は、彼の目的に対する熱意がしっかりした基礎を持つということができるかもしれない。彼は少年聖歌隊員の時に、バッハと同時にラインベルガーのオルガン音楽も知るようになった。二人の作曲家の距離は遠いが、著者に関して言えば彼らは非常に大きな一つの共通点を持っていている。教会のオルガニストとしての長い経歴を振り返って、彼らの音楽は他のどんな作曲家による音楽よりもはるかに良く、継続的に利用されるか否かというテストに耐えたことを、彼は発見した。彼の多くの良き同僚オルガにストたちが、同様の発言を聞いたように、オルガン作曲家としてのラインベルガーには、なにかが存在するに違いない。本書の目的は、演奏者がその「なにか」を掴み取り、それらを聞き手に渡すことを支援することである。


前奏曲

I.

 

 バッハの時代以降、もっともオルガン音楽のレパートリーに貢献したのは誰か?

 

 数年前まではほとんどのオルガニストは「メンデルスゾーンのソナタだ」と答えただろう。ある意味では今日、本当に言われるかもしれない。その本質的な価値は別として、メンデルスゾーンのオルガン音楽は極めて重要だ。本当に偉大な作曲家において、バッハの死後オルガンは見過ごされていた。器楽作品はオーケストラというライバルの後塵を拝し、四流の音楽家だけがオルガン音楽を作曲した。もちろん彼らはバッハのように書こうとし、(もちろん均しく)文字どおりの意味に関する限り彼らは成功しすぎる程成功はした。メンデルスゾーンは、オルガンのための作品の中でまさしく最高であるだけでなく、長く生き残ろうと努力していると見受けられる作品を書くことによって、この伝統を打ち破った。同じようなことがフランスでも起こった。ルフェビュール-ウェリーとバティストの浅薄な作品にゆだねられていたオルガンを、フランクとサン=サーンスが発見し、数年後にはその名声を引き上げた。

 

 歴史的な重要性の問題からは、従って、私たちの質問に対する答えはメンデルスゾーン、フランクもしくはサン=サーンスのどちらかの名前となるかもしれない。しかし3人あわせても作品数は少なく、従って我々は全体として答えを他に探さなけらばならない。作品をよく知っている大部分のオルガン奏者は、ラインベルガーの20 のソナタおよび100 におよぶオルガン小品が、バッハのオルガン音楽に続く二番目に重要な唯一のものであることに同意すると私は思っている。

 

 ラインベルガーの完全な作品目録 - それらは197 作品に及ぶ - を一瞥すると、彼のオルガン音楽の失敗した楽章の割合いの小ささを表している。彼は経験豊富で、器楽曲に着手するまではオールラウンドの作曲家であり、そして彼は数年間ほとんどオルガン音楽に注意を払わなかった。かくして彼の最初のオルガン・ソナタ - ハ短調 - は作品27 として数えられた。次の作品 - オルガン・トリオは - 作品49、3・4・5番目は - オルガン・ソナタ 変イ長調、ト長調、イ短調 - は作品65、88、98 となった。作品111 以降、オルガン作品の頻度が高くなり、時に追うのが難しいほど連なっている(例えば154, 156, 161, 162, 165, 167, そして 168)、彼がもっとも熟した時期に16 曲のソナタ、24 曲のフゲッタ、性格的小品(12 曲)、瞑想曲(12 曲)、12 曲の小品セットと12 曲のトリオ、そのほか2つのオルガン協奏曲、2つの弦楽器とオルガンの組曲、そして数多の声楽とオルガン伴奏作品を作った。大量の彼の教会音楽(12 のミサ曲と多くの宗教的歌曲、および合唱曲)は彼の人生の後半から作成されている。ラインベルガーは第5ソナタ(嬰ヘ長調)を作成することにより習慣的にソナタを作成するようになった。明らかに24 曲のソナタを書いて全ての長調・短調の調性を一巡しようとして作曲している。この仮定は20 曲がすべて異なる調である事実に基づいている。果たされなかった調は変ロ長調、嬰ハ短調、変ト長調(*)そしてホ長調であった。

(訳註:(*)原文ママ、短調と間違えていると思われる)

 

 なぜメンデルスゾーンはオルガン作品を書くとき、慎重にソナタ形式を避けたのか? よく聞くのは、彼がオルガンにはソナタの様式は不向きと考えており、そのため古いイギリスのオルガン独奏楽曲の様式を選んだということである。しかし彼のソナタの楽章の多くは即興で作成され、その後書きとめられ修正された可能性が高い。このことは、構造においてのみならず設計においても全体的に粗いことからも説明がつくと思われる。メンデルスゾーンは作品に偉大な蓄積を込め、校正刷りの改正に熱心だったと主張したが、その主張にも関わらず、おそらくこの作品ほど、素材はこの上なく素晴らしいが紙面上の出来はこの上なく悪い作品はほかにないだろう。彼がソナタ形式を拒否したとしたら、しかしながら、彼には十分な根拠があった。冗長な展開は現代のオルガンでは有効となりうるが、メンデルスゾーンの時代には、そのような書法は単に楽器の限界が判明するだけだった。この危険は、ラインベルガーによって認識されているようで、彼のソナタ形式の使用はとても自由である。彼のすべての変更は単調さを逃れるために行われる。彼は通常再現部を短くし、冗長になることを避ける。彼の主題は、古典的ピアノソナタで通常行われるものよりもはるかに豊富であり、様々なテーマが自然に続くため、非常に小さな反復であっても、最小限の楽節であっても、豊かな旋律を感じることができる。彼のコーダの大きな特徴である。そしてストレットまたは従来のペダル音によるのではなく、むしろ主題を鳴り渡らせることによって、すばらしいフーガを成功のうちに完結させる。

 

II. (ラインベルガーと演奏記号)

 

 ソナタのほとんどは新しい編集が必要なほど状態が悪い。間違ったメモや臨時記号で汚され、メトロノーム記号のいくつかは不合理である。演奏記号とレジストレーションは余りにも乏しい - 現代の音楽としては異常な欠陥である。なぜなら多くの演奏者は忠実にラインベルガーの多くの記号にしたがっているため、欠乏は作曲家に多くの危害を与えている。これがなされるとき、最も素晴らしい楽章の安定性を欠いてしまう。派手な楽章はほとんどは思案を必要とし、レジストレーションに気を使わなければならない。オルガンが重低音と持続性で印象的にするというまさしくその性質が、すぐに耳をうんざりさせることをわれわれオルガニストは忘れがちである。重苦しいものから印象的なものへと分けるラインは、演奏者が理解するよりも早く到達しやすい。現代音楽の全ての傾向が力と色の恒常的な変化に向かっていることを、我々は心に留めておかなければならない。オルガンとそのレパートリーを、今日の音楽の風味と違うものにする必要はない。

 

 ラインベルガーの発想記号の控えめな使用は、明らかに2つの要素に起因している。まず第一に彼の時代の平均的ドイツのオルガンは、レジストリーに機械的補助が不足していた。ドイツに関する限り、近年までスウェル・ペダルは海辺(sea-shore)の一般の対象ではなかった。 - 実際、ラインベルガー自身のオルガンにはスウェルがなかった。ソナタ全体で、クレッシェンドマークが何故一度しか登場(19番・6ページ)(*)しないのかを説明する -そして作曲家は徐々に追加されたストップによる増加を明らかに意図していたが、 左手は主題のために自由にされている。第2にピアノ連弾のために全てのソナタ(明らかに最初のもの以外は)を編曲したため、彼がその媒体でより音楽について考えていたことは明白である。

(*訳註:第一楽章 Prelude(Präludium) 112小節目)

 

 間違いなくソナタは作曲家による冷淡な、表情とその他の演奏の細部への無関心に苦しんでいる。あまりに多くの人々は、印刷された楽譜への何気ない一瞥によって影響される。ほとんどの発想記号と魂のこもったイタリア語の注記がなく、それらは音楽が無味乾燥であるという結論に達している。情熱と詩がラベルと極端にすっきりしている発想記号に限定された作品によって我々は完全に欺かれる。実際に、ラインベルガーのオルガン音楽は一つのストップを引っ張るか、またはペダル付きピアノによって効果的に演奏できる純粋な音楽である。それは豊富なストップを持つオルガン上で上手に作ることができ、オルガン音楽と同じぐらいオルガン建造者からほとんど独立しているという大きな長所をバッハのよい割合で共有している。[私は一段鍵盤と四つのストップ(開管)と数ヶ月共にし、証明した。バッハ、メンデルスゾーンそしてラインベルガーだけがその際に浮かび上がった。]

 

III. (ラインベルガーとフーガ)

 

 作曲家の独創性を証明する最も説得力ある証拠の一つは、古い書式に不可欠なことをいう能力であるということと一般的に言われる。ほぼ確実に、彼はその形に見つけたものよりも表現力豊かな媒体のままにするだろう。ラインベルガーのフーガはこの力の賞賛に値する例である。彼のソナタの第一楽章もよろしいが、フーガはさらに優れている。必ずしも音楽を説得力のあるようにする理由で、指を正確に置くことは必ずしもできない。これは可能であるだけではなく、容易だ。我々はラインベルガーのフーガの卓越性は、主にそれらの主題によるものであることに注目することから始める。主題の重要性は、フーガの作曲家からは見過ごされがちだ。初期の作曲家は使い古されたタグ、こじんまりとした断片、カッコウの鳴き声で長いフーガを作り出した。どのシリーズのメモもその目的を果たした。多くの主題はカノンやストレットのための適合性を目的として、苦労して設計され、そして結果があまりにもしばしば他の何かのために不適合であった。本当に重要な主題は、バッハ以前はまれだった。彼らの独創力は停止中であるとき、一部の現代の作曲家でさえフーガの主題を書いているようだ。例えば、レーガーでは最も巧妙で面白くない一連の音符が頻繁に使われていた。メルケルの主題は格好がよく魅力的だが、品性がかけている。実のところ、完璧なフーガの主題は初心者が考えているよりもはるかに作り出すことが非常に難しい。単なる旋律の美しさでは十分ではない。もしフーガが長い場合、確かにとても旋律的な主題はくたびれてしまってむしろ試練から発生しやすい。最も必要とするものは品格だ。強い人格のように、主題は初対面で魅力的でなければならないというよりは、むしろ印象的であるべきで、そして最後のカデンツだけが、その卓越した啓示(暴露)の終わりを見なければならない。

 

 ラインベルガーの最高の例はこれらの必要条件を適えており、強くて進取的であり、彼のフーガに最高の門出の祝いを与える印象的な品質だ。

 

 ラインベルガーの教科書に対する譲歩は、通常これらのフーガで非常に初期段階で終わる。規則的な対主題はどこにあるか? 主題か対主題の若干の部分から支配的に発展したエピソードはどこにあるか? フーガのあらゆる小節が関係を示すように、忠実なテキストはどこに書かれているか? 学術的なフーガの狡猾な装置はどこにあるか?

 

 規則的な対主題がラインベルガーにはない。普通の種類のエピソードは存在するが、それらはしばしば最も重要な関係だ。17曲のフーガのうち少なくとも11曲に必要な対照はまったく最新の素材、または第一楽章からの主題を用いて提供される。そのような無関係な問題の導入が興味深い楽章をもたらすかもしれないと主張するかもしれないが、その楽章はフーガではない。同様に、我々は彼のフーガを貧弱なモデルとみなして、古い理論家がほとんどバッハに関して言及しなかったということを知っている。そして、フーガの作家としてバッハの罪を示しめして、我々の本来の勝ち有る人物の一人(Dr. Crotch)は、彼の「48」のコピーにおいてコメントを鉛筆で書いた。

 

 確かにラインベルガーの実践は、バッハの1つか2つの実験によってもっともなことかもしれない。「48」のいくつかでは、例えば1巻の変ホのフーガ、バッハは興味の中心を主題からエピソードに移し、そして彼のオルガンフーガには新しい問題の重要な箇所の紹介の例が含まれている。- 「楔」のフーガは最も顕著な事例だ。しかしながら、バッハが明らかに手探りで進んでいた実行の有用な発達をラインベルガーはする。もし「楔」の実験が完全に成功していないならば、それは無関係なもんだがその環境より面白くないからだ。我々のほとんどはこの楽章がこの辺に落ちることに同意すると、私は思う。Parryが言うように、「楔」がまさに「構造的にゆるい」という印象を与える事実、バッハは「著しい主題に対する極端な主張を軽減する」(*)という問題を解決していないことを証明している。解決策はラインベルガーによって確かに見い出された。彼の新しい問題は、あらゆる場合において先立つこととスタイリッシュで明確な対照だ。その独立性にもかかわらず、それは利益を増大させ、あるいは少なくとも維持し、そして(とりわけ最も重要なことであるが)それはそのスキームによく適合する。

 

[原註:* Parry, "Johan Sebastian Bach," page 511]

 

 年上の作曲家がそのような備えを決めた上手な装置の非常に控えめな使用を、ラインベルガーはフーガの作家としてこれらの不規則性に加える。我々が知るこれは、能力の欠如によるものではない。彼がカノンで何ができるか見たいのなら、我々はトリオの最初の組のヘ長調と、作品174の7番「Solemn Festival」の中間箇所のカノン・フーガの魅力的な標本に目を向けるだけでよい。彼の対位法作家としての名声はよく知られていたということは、彼の作品のほぼすぺてのページで証明されているが、スキルのためのスキルを使用することはほとんどない。ソナタ15番のRicercareでも、おそらくRicercareが示したことがないほどの自由があり、そして作品174と同じ題名の短い作品はもったいぶりから自由であるだけではなく、主題そのものとは無関係の、楽しく巧妙な2番目の主題がある。ラインベルガーが賢明であると自負していると思われる唯一のフーガは、いくつか印象的なパッセージがある学術的な作品だが、ストレッティやアウグメントなどなどの活用が少しわかる1番のソナタのフーガだ。(ちなみに、このフーガとソナタ4番の2つだけが、一級の主題を持たない唯一の2つだ。1番は鈍重で4番は半音階進行 - 後者の場合自由なパッセージによって提供される全音階的な引き立てによって、予想より非常によいフーガが得られる)。

 

 おそらく他の何よりもフーガの形態は、作曲家にとって何も言わない最も親しい友人という事実から苦しんでいる。彼は一連のメモを書き留め、その回答に対位法を加えなければならなかったが、彼は順調に進んでいた。一つのことが別のことを引き起こし、その時までには反対の展示は、合格すると、彼が実際にお香に値するものよりもはるかに良い音を作りだしていた。しかし、まさしく題名そのものが退屈さと同義語になったその評判を、彼と彼の同類はそのように傷つけた。ラインベルガーの音楽全般についてどのような見方をしようとも、私は彼のフーガに精通しているすべての人は、この部門で彼が最善を尽くすことに同意すると信じている。バッハ自身はフーガの存在を証明しているわけではなく、厳密な形ではなく最も自由で表現力のあるものの一つだ。


No.1, in C minor , op.27

 我々は後継者の優秀さで苦しんでいるこの作品について言及するかもしれない。ラインベルガーの最初のソナタが、彼の最後のソナタであったならば、その精力的で学問的なフーガだけでも高く評価されただろう。しかし残りの19曲のソナタには、あまりにも多くの素晴らし楽章が含まれているため、第1番は肩身に狭いものになっている。その仲間のほとんどよりも原版ではレイアウトが悪く、演奏記号やレジストリ記号がないことに苦しんでいる。これらの欠点はジョン・E・ウェスト君の素晴らしい校訂によって克服されている。

 

(以下略)

No.2, Fantasia-sonata in A flat, op.65

 第2ソナタは第1ソナタよりもあらゆる観点で大きな進歩を示している。第1ソナタのフーガは伴う他の楽章を圧倒してしまtっている。第2ソナタの第1楽章はより発展した例であり、第2楽章のちょうどよい長さの表現力の高いアダージョである。ラインベルガーは彼のオルガンソナタでコラールを全く使わなかったが、今回はコラールに影響されたことをうかがわせる主題とフレーズ書いている。このソナタは讃美歌のような性格の幅広いフレーズ - Grave - で開始される。

 

(以下略)



No.3, in G, op.88 - Pastoral

 「なぜ田園?」しばしばこのソナタについて尋ねられる質問では、形式に関する我々の考えの固定観念を示している。順番にゲームを行う、田園はイ長調であるべき、6/8拍子、物静かで旋律的、あるいは嵐、もしくは小川や小鳥の模倣といった一般的な見解であろう。しかしゲームを行うにもいろいろ方法があり、このソナタのラインベルガーは、そして純粋な楽しい雰囲気を表すことによるもっとも単純な方法で演奏している。(間奏曲はあまりにも些細なので、作品全体の雰囲気対する印象にに影響を与えない)。和声と時間に関してもこれは非常に効果的だ - 素直さ、明るさ、ト長調、そして第1楽章のための12/8拍子(ただし三連符での4/4拍子として示される)とフィナーレのための6/8拍子。フォルテッシモは障害となる。しかし、音は大きいが音楽は重くない。第1楽章は数小節を除いて3声のハーモニーがある。ペダルポイントの上の2つの箇所で構成されている部分が多い。そしてムードに関して言えばベートーヴェン(またはほかの誰か)の「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」を表現できるものは何か? 第8詩編の旋律の使用は楽章に教会の手触りを与えたいという、ラインベルガーの要望なのかもしれない。または(より可能性が高い)旋律は、彼の心の中で、牧歌的な性質の詩編と結び付けられていたのかもしれない。(今日ほとんどの英国国教会では、詩編「主はわが牧者」がこの旋律で歌われる)。いずれにせよ、音楽の浮力に反論の余地はない - 3部構成のハーモニーの可能性についての主題課題。楽章は短く、フォルティシモ全体が効果的だが、しかしおそらく前半はフォルテで、詩編の旋律が一番上に出てくるところで増加し、最後にオルガンがいっぱいなるまでの組み立てるのがよい。しかし、いつものラインベルガーの早い楽章のときと同じように、何よりも重要なのは連続性だ。

 

(以下略)

No.4, in a minor, op.98

 「幻想」ソナタや「田園」ソナタのフーガの域にはまったく達していないが、第4ソナタは外見上の事例よりもよく知られることの値する優れた作品である。第1楽章は簡潔で素晴らしい。その主題は幅広く、真摯な調べで明白に調和している。


(以下略)



No.5, in Fis, op.111

 全ての面において持続的な価値で、この曲はそなたの中で最高のものの一つである。その卓越性は構造的に示された技術に大きく示されている。ソナタの最初の部分は古典的形式の自然な使用を可能にする作曲家の能力を完全に示している。後の作品で、特にフーガにおいて我々は驚くほどの多様な方法で能力を見る。第5番の第1楽章は3つの部分で構成され、第3部は第1部を短縮した繰り返しであり、第2部はフーガである。我々はこのように後のハ長調のソナタの見事な「前奏」を前もって示すことを待ち、フーガは長い楽章の中核である。Graveで開始される嬰ヘ長調のソナタは、荒々しいffとppや長調と短調の交代によって劇的なタッチを催している。それは印象的なプロローグを醸し出している。フーガは二つの主題が同時に披露される二重のものである。ここに例を示す:

 

(以下略)

No.6, in E flat minor op.119

 それらほとんどの作品全体をよく知っている人々は初期と後期のソナタには、いくつかの作曲家の最もすばらしい楽章を含んでいる事に同意する。ソナタの中心グループと呼ばれているかもしれないことに、彼は一貫として成功している - 6番から14番まで。初期のソナタには未熟な楽章が含まれていたのに対し、これらは全てにおいて弱い面はほとんど見受けられない。後期の物のいくつかでは素晴らしい素材のよい取扱いは、長々しい取扱い、もしくは執筆時の愚鈍さによって損なわれる。その後の、予告、その時のソナタはオルガン作曲家としてのラインベルガー主要な始まりを飾ると言われるかもしれない。物憂げな「Preludio」(最も暗い調)のあとに優雅な「Intermezzo」が続き、主に3パートの和声、ロ長調の明るい調の中、短いが重い変ホ短調の行進曲、最後は同主長調で精力的なフーガ、とその4つの楽章は細かく対比される。

 

(以下略)



No.7, in f minor, op.127

 "前奏曲"はラインベルガーの独創力の良い例です。それは5つ以上の主題に基づいており、それぞれほとんど等しく重要です。それらのうち二つは長い楽章に発展する十分な余裕のある素材を与えます。しかし、オルガンはは単調になりやすく、発展された展開は退屈につながりやすい。ラインベルガーはこの危険を認識しているようです。

 

(以下略)

No.8, in e minor, op. 132

 このソナタはシリーズの中でも長くよく知られたものの一つである。その人気は様々な理由によっている。パッサカリアは試験課題として有用なものである。フーガはその組み合わせとして最も困難なもののひとつである。平易で音楽的な緩徐楽章。スケルツォソは快活な演目である。しかしこの上なく素晴らしいのはパッサカリアで、レパートリーとして最高の一つであり、珍しいことに演奏者だけでなく聴衆にも訴えかける。これらの主張にもかかわらず、全体としてのソナタは籠の中のえり抜きの一つではない。スケルツォソとパッサカリアはラインベルガーにおける最上位の語法を示している。フーガとインテルメッツォは幾分劣っている。これら最初の二楽章は単に良いだけだが、第三、第四楽章は素晴らしいといっていい。

 

(以下略)



No.9, in B flat minor, op.142

 第一楽章は、またしても主題の材料を惜しまないラインベルガーを提示している。加えて導入部のその一部がCodaとして使われている、a-b-c-a-b-c-aからなる適切な3つの長い主題を持つ "Grave"。最初の主題はラインベルガーの最高のものであるが、主に6番目の伴奏部に負っている(そしてたまたまだが、左手の練習の最も役に立つレパートリーの1つである)。

 

(以下略)

No.10, in B minor, op.146

 このソナタは最初の1ダースのソナタにおいて最高の一つなのだが、あまり知られていないように見受けられる。おそらくこの比較の軽視はその楽章のみ- Finale - ただ1つだけ色彩や快活さなどの間近で魅力的な性質ををたくさん持ちあわせてるという理由による事実によるものだ。それでも長い目で見れば、主要な素材を臨機応変に、そして簡潔でスタイリッシュに直接に処理したオルガンの形式のなかでは2つの一流の例で、前奏曲とフーガよりも優れたものは何もないことがわかる。

 

(以下略)



No.11, in D minor, op.148

 その燃え上がる炎の美しい絵画のようなアジタートと、美しいカンテリーナのおかげでこのソナタは一般受けが良い。私はフーガも他と同じぐらい素晴らしいと、読者にわかってもらいたい。先の楽章から続く良い意味での試練を進み行くことにより、4楽章中最も素晴らしいとする私に同意するでしょう。

 

(以下略)

No.12, in D flat, op.154

 ほとんどの演奏者はそのソナタが最高であることに同意する。また私が思うに、残りの演奏者は少なくとも何者にも劣らないということを認めるだろう。その主題の素材は印象的であり、その展開はラインベルガーに期待する品質であり、そして作品のコントラスとバランスは中間楽章が全体的に静かに美しく奏でるため、必要な救済を提供することによって通常よりも優れている。それは強烈な第一、第三楽章の間に耳に十分な休息を当たえている。


(以下略)



No.13, in E flat, op.161

 12番のファンタジーの後では、性急な批評家は13番は生温くありきたりだと呼ぶかもしれない。前奏曲の形式の重要な例とみなすことによって、最高の真価を認めることができます。外観にもかかわらずペースは穏やかであり、テンポの変化はありません。4ページと7ページのテンポ・プリモのユニット単位の変化は、開始部マエストーソの4分音符と中間部アダージョの8分音符は両方とも88で等しくなっていて、耳にははっきりわからない。この根気強い楽章を通した(7ページ)のやや遅い足取りは瑕疵である。非常に多くの関心を持っている演奏家でさえ、途中で自分があまりにも単調であると感じ始める - 非常に本当の感覚において、ペダルはすべての小節で続けられる。それでも楽章には多くのよいものがあるので、失敗したとして却下してはならない。重厚かつ簡素であるから、礼拝での使用に最適だ。簡素な開始主題にペダルの下降音階(16フィートのリード管を追加することにより、3ページ目と7ページ目での再現に優れた機能を追加できる)、4ページ目から始まるカデンツァのようなパッセージ、そして多くの楽章の思慮深いポリフォニー、は独自の魅力を持っている。何より素晴らしいのは、小さな第二主題だ。それは下降スケールの前半にすぎないが、第二小節では4-6の和音に達するという点では大きい。実際、右手で6度下のとテノールのドミナントが次の顕著な部分であり、全体の影響は一連の第二主題の反転だ。

 

(以下略)

No.14, C Major, op.165

 ラインベルガーの作曲の技量はハ長調ソナタの第1楽章でとても顕著にあらわされている。控えめに「前奏曲」と題されたそれは11ページをみたし、事実上フーガとソナタの形式を兼ね備えている。それは私たちに前奏曲とフーガを与え、明確な第2主題を含めることでソナタ形式に触れ(正式に要約された本当のソナタ形式で展開し、フーガの中間部に挟まれている)、そして前奏曲とフーガ両方からもたらされた材料をまじりあわせ、2ページにわたるコーダで結ぶ。形式は a と b 上にa-b-c-b-c-Codaであり、綿密な計画は完全な成功を経て運ばれる。

 

(以下略)



No.15, in D, op.168

 このソナタはわずかに欠陥が見受けられるが、それを補うほどの良さが表れている。おそらく第1楽章に関する限りファンタジーという二面的な形式の差し障りが関係しているようだ。導入部で重要な作品を公開するという、長い間確立された計画は健全な感覚があるが、そのような導入部は簡潔でなければならず、そしてその性格はそれがもっと大きな何かへの前奏曲に過ぎないことはだれも疑わない。ラインベルガーはあぶはち取らずになったようで、Andante amabileは長さが3ページ近くあり、そして完全に開発された明確な主題がある。しかもそのペースは遅い方で、Agitatoまで行くには何の役にも立たない。実際、5ページ目の二重線にて主和音で解決すると、それ自体で完全な動きとなり、牧歌的リズムと流れるポリフォニーでとても心地よい。我々はそれを礼拝で別途使用することをためらう必要はない。

 

(以下略)

No.16, in G sharp minor, op.175

 この作品はその優秀さだけではなく、それ自身のスタイルと風情によってほかの作品群とも距離を置いているように見える点でも、後期のソナタ群において最も注目すべき作品である。ひとつには、ゲルマン民族ではないようだ。後半のソナタの平均よりも数ページ短い。そしてそれは特にフーガに関してはテクスチャーも軽い。緩徐楽章の題名は北ヨーロッパを訪れたことを示唆している(*)。もしそうなら、我々は全体として音楽の重要で奇妙な品質の鍵 - グリーグやシベリウスで見出すようなロマン主義 - を持っている。それを冷たいロマンチシズムと表現するが、誤解される危険がある。それはむしろ、我々が知っているように温かい詩と簡単に区別がつく、寒い国の詩と呼ぶべきだ。(スコットランド民謡とイングランド南部の民謡の違いを国内的例として思い浮かべてみよう)。

 

(以下略)

(*訳者註:緩徐楽章とは第2楽章の「Skandinavishch - 北欧風 -」 のことを指すが、ラインベルガーが北欧を訪れた記録は存在しない)



No.17, B Major, op.181 - Fantasia

 この作品は後期のソナタの中で最も知られているようである。確かにシリーズ最高級の一つであり、それは(例えば)半ダースある佳作から除外することは出来ない。変ニ長調(*)を呼び出す解放感、想像力に富んだ旋律、そして和声の豊かさ。メロディーに関する限り - 幅広いタイプの楽器によるメロディー - 私は第1楽章の冒頭部よりもより優れた現代のオルガン音楽を思い出すことが出来ない。それはこのように口火を切る:

 

(以下略) 

((*)訳者註・68小節目からのことではないか?するとニ長調だと思うのだが)

No.18m A, op.188

 これらのソナタの最初の1ダースを演奏し楽しんでいる非常に多くのオルガン奏者が、残りに関してはほとんどしらないか、あるいは全く知らないということは驚くべきことだ。演奏会の仕事をとほとんど行わない多忙なオルガン奏者は、おそらく次のことを発見するだろう。バッハの大部分、いくつかのヴィドールの交響曲、ギルマンのソナタ、ハーウッド、メンデルスゾーン全曲、粒選りの初期のラインベルガー、彼は大きな仕事のやり方で交渉できるすべてを持っている。 一般的な印象として、ラインベルガーの後期のソナタには、作曲家が12番で彼のやり方を言ったように、顕著な衰退が見受けられる。後半の作品を本当に知っている人が公のような見解を持っているとは、私は思わない。駆動力が連続的ではないことを素直に認めよう(例えば、彼の作品には7番のフーガほど際立ってエネルギッシュな作品はない)、そして時々装飾的なパッセージやその他の機能が少し馴染みのある些細なものに聴こえることもある。しかし主題の素材、和音そして展開に関しては、平均的なオルガンの作曲をはるかに超える一流の音楽がまだ残っている。後期のソナタが初期のソナタの人気に苦しんでいるとしか考えられない。というのは、抽象的にはいいことはたくさんあっても、実際の政治の問題としては20曲の大きなソナタはランクとファイルに対して数が多すぎるからだ。十分な技術をもっているか、もしくは練習のための十分な時間を持っている演奏家だけが、このような実装を正当化することができる。私はソナタ14番から20番までのいくつかの楽章を除いて、すべてを賛美している者と確信しているので、セットにまとめるのではなく、20曲のうち最初の6曲として登場していてれば、私は幅広い人気絵を得ていたと思う。

 

(以下略)



No.19, in G minor, op.193.

この曲はソナタの中でも知られていないものの1つであるが、ベネット博士(*)曰く、後期の4曲の中でも最高のランクである。それはもっとも長く(30ページ)(**)、そして非常に難しく、簡易で俗受けしない、大胆な荒々しい - 本当に厳しい - 型式だ。Molto moderato, ma energicoという大胆な開始部は一目に値する。

 

(以下略) 

(*訳者註: ベネット博士についてはNo.20を。**初版Forberg版が30ページ。Novello版は32ページ。Carus版は30ページ。Novello版Carus版全てを見渡しても30ページに達するものはない)

No.20, in F, Op.196 - To the Peace Fest.

 このソナタの副題に関してはよくわかっていない。ベネット博士(*)は作曲された時点(1900年)で、ハーグ平和会議(万国平和会議)が開かれていたことを作曲家は念頭においていると推測している。帰することは何であれ、前奏曲はいくつかの高尚なアイデアに触発されているようで、幅広さと気高さでソナタのいずれの楽章にも劣っていない。滅多に出会うことのないその主題の素材の形式の単純さに注目するべきである。

 

(以下略) 

(*訳者註:G. J. ベネット(1831-1911):ラインベルガーの弟子。ウェストミンスター大聖堂オルガニスト、デイリーテレグラフ誌音楽評論家)



小曲集

ラインベルガーのソナタは、印象的な主題の豊富さによってよく演奏され、同様の豊かさが彼の賞賛すべき短いオルガン曲にも示されており、その数は100曲近くにも及ぶ。ほとんど例外なく、これらの作品は発展が要求する魅力的な主題に基づいている。しかしスペースの自ら課した制限の中では、単なる説明に過ぎない余地がある。結局のところ、短編小説のような音楽小品は創作の最も厳しい試験の一つである。水増しをしたり、盛り上げたりする余地はない。聞き手も読み手も一気に引きつけなければならなくて、にわかに完全な満足感を与えなければならない。ある意味で、ラインベルガーの才能はソナタよりも短いエッセイの方が説得力があるかもしれない。

 

(以下略)

オルガンとソロ楽器作品

オルガンと他の楽器を使用するために、特に作曲された作品に関しての問い合わせが非常に頻繁に行われる。有名な作品の編曲物にしばしば満足できず離れたいと思っている演奏家はこの分野のラインベルガーの試みを吟味するべきだ。空間やそれらを批判的に討議する必要もありません。私がそれらを試すことができる限り、私はひとつの意見で自分自身それに満足して、私たちが作曲家の期待する基準にかなり達っしている。

 

(以下略)