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Orgelsonate Nr.14 in C-dur, op.165

オルガンソナタ第14番 ハ長調 作品165

Präludium; Idylle; Toccata


III. Toccata (via BSB Mus.Ms. 4635/2#1)
III. Toccata (via BSB Mus.Ms. 4635/2#1)

 そもそもWebMasterは当初この曲にあまりピンとは来なかった。キャッチ―な主題あるわけでもないし、他の曲のようなシビアなフーガが展開するわけでもない。割に中だるみの凡庸な曲だと思い、ほかのお気に入りのソナタのようにあまり聴いてはいなかった。とにかくラインベルガーの楽曲を消化するローテーションの一つでしかなかった。それでも手持ちのCDを一通り聴き、さらに二巡目三巡目と聴いているうちに、「あれこの曲明るくていいな」と思うようになってきた。

 

 そう、この曲はとにかくポップで明るくて前向きで朗らかなのである。ハ長調なのだが、全編を通して朗らか(その割には終曲のトッカータは多少もっさり感があるが)。ライベルガーに限らないかもしれないが、長調の楽曲の中には中間楽章をちょっと哀愁を帯びたような渋めにしてアクセントを加えたりするものである(短調ならその逆?)。

 

 ラインベルガーは1888年のソナタ12番から突如4曲連続で長調のソナタばかりを書くようになる。当初この事態は6番から11番までの6曲が短調の連続であるので、その反動をだろうと思っていた。だいたいこの頃のロマン派の作曲家は斜に構え、眉間にしわを寄せながら、深刻ぶった楽曲をいっぱい書いているものである。24の調全部でオルガン・ソナタを書くつもりだった彼も、さすがに偏ったと思ったのであろう、と。しかし正確なところはわからないが、事態はもう少し複雑なのではないかと思われる節がある。

 

 まずいろいろなページにも書いているが、ラインベルガーは個人的事情をほとんどその作品に反映しなかった人である。どんなに病気で苦しくても、身内に不幸があっても、外部の批評家からコテンパンに非難を受けても、仕事は仕事と個人的事情を投射したり仕事が滞ったりしない人であった。

 

 1887年の夏ころから愛する妻・ファニーの体調が悪くなる。当初具合の悪さは夫を慮って口にはしていなかったが徐々に容体が悪くなってきて隠し通せなくなる。詳しい病名はわからないが、リューマチ性の疾患だという。オルガン・ソナタに限ればその年の4月から5月にかけて11番(ニ短調)を作って以降。ラインベルガーが正確にファニーの病状を知るようになった時期はわからない。だが、翌年夏に12番(変ニ長調)を完成させたときはまだ気づいていなかったのではないだろうか? なぜかといえばこの曲は前の11番同様非常に冷静・冷徹・非情な印象を受けるからである、特に終曲のフーガに。次の13番(変ホ長調)も同様ではないだろうか? この3曲はかなり冷静に作っている印象がある。

 

 しかし次の14番。突如この曲は得意のフーガを封印し(いや正確には第一楽章の中にあるのだが)、曲の構造をこれまでと一変させてしまう。その最終楽章は、200を数えるぐらいの楽章をオルガン作品としては唯一と言っていいトッカータである(ピアノ曲にいくつかあるぐらいか)。そしてこの曲はいやなことを忘れてしまいたいのではないかというぐらい、ひたすら明るい曲に仕上がっていく。この14番を作ったのは1890年の10月中旬から下旬にかけて。この年、ファニーの体調はベッドから起き上がれないほどの最悪の状態で、この後3年間は毎年恒例の夏の休暇の保養地や故郷ファドゥーツ訪問ができないほどであった(この間出来上がった次の15番(ニ長調)もフーガの出番はさらに少なく、終曲はこれまで使ったことのない標題 - 「探求」を意味するリチェルカーレ - であり、これでもかというぐらい内容の豊富な楽曲に仕上がってる)。

 

 この時のラインベルガーの心境は如何ばかりだったのだろうか? 夏前は具合が悪いとはいえ、ファニーは『ベツヘレムの星』の台本を書いていたころである。14番を完成させたのはそのあとの秋。彼はファニーのためにひたすら明るい楽曲を書いたのではなかったのだろうか? 再三言うがラインベルガーは個人的事情を作品に反映させない人である。だがこの時ばかりは、暗くなる家庭を忘れようとしていたのではないか? 無理に明るく振舞おうとしてしまい、一周まわってかえって察っしされてしまう状態なのではないか? (さすがにファニーが亡くなった直後の16番 嬰ト短調 op.175は直接の言及こそないが、男泣きだと思う)

 

 さすがにWebMasterがうすうす感づいたぐらいだから、専門家・マーティン・ウェイヤーも似たような事を述べている。以下にはCarus版14番の単行本に記されたウェイヤーの解説を訳出してみたが、いかがなものであろうか? ウェイヤーの解説を補足すれば、この曲はミラノのLurani伯爵に献呈され、彼は1891年の1月28日付の手紙で感謝の意を述べている。ほか12番を献呈されたGottschalg(彼は11番の楽譜も送ってもらっている)にも楽譜を送っている。


Carus Verrag:50.165

オルガンソナタ 第14番 単行本 序文

 1890年にラインベルガーがオルガン・ソナタ14番 作品165を作曲したころ、彼の人生は表向きあまり良くはなかった。ラインベルガー自身は長らく健康に優れていなかったし、妻フランチスカも具合が悪くなる兆候が見られた。1867年の結婚以来、子供には恵まれなかったが二人は幸せな生活を送っていた。フランチスカは夫を支え常に大事にしていたが、その頃彼女は夫を手助けできないぐらいの重病であった。例えば彼女が記録していた『ヨーゼフ・ラインベルガーにより公表されたテーマ別作曲作品カタログ』の作成を続けることが出来なかった。彼女が自身が書きつけられたのは作品164(クリスマス・カンタータ『ベツレヘムの星』1890年作曲、フランチスカ自身が台本を書いた)まであった。オルガン・ソナタ 作品165以降は他の人の手によって記入されカタログは完成された。彼女の健康は回復の兆しがなかった。それどころか肉体的な疾患に加えて、彼女は深刻な精神的な疾患(おそらくうつ病)にも苦しんだ。彼女は1892年の大みそかに亡くなった。

 

 しかしながら、オルガン・ソナタ 作品165はこのような抑圧的な状況を微塵も見せていはいない。逆にこれはこのような言葉でこの作品を特徴づけられるだろう。エネルギッシュ、楽観的、才能の卓越した発揮(第一楽章)、思慮深い牧歌性(第二楽章)、力強さと熟達(最終楽章) - 第一楽章では彼は前奏曲とフーガという正当な要素を織り込む - とりわけ転調の方式は明らかで - 古典的なソナタ。異なる文体の平面とさまざまな想像的技術を駆使するそのような作用は、彼を生まれながらの作曲の教授であることに見出す。この手順は彼の音楽に古典的な安定をあたえ、主観的自己顕示の危険から保護する。しかしながら、オルガン・ソナタ 作品165はこのような創造的プロセスが生命にあふれた晴れやかさを生み出すことが出来るという好例である。第二楽章の中間部(モデラート 49小節目)、ラインベルガーが自身であたえた希少なレジストリーの例が見受けられる(141小節目も参照せよ)。この印の背後にある音楽的意図は、ラインベルガーによって検品されたミュンヘンの聖ミハエル教会のメルツオルガン仕様によって暗示されるかもしれない。

 

I. Manual:

16': Groß-principal, Salicional

8': Principal, Gedeckt, Gamba, Rohrflöte, Quintatön, Trompete

4': Octav, Spitzflöte

Octav 2':, Wuint 2 2/3, Mixtur 4fach

 

II. Manual:

16': Viola pomposa

8': Geigenprincipal, Salicional, Doppelflöte, Liebl. Gedeckt,

Fagott-Clarinett

4': Fugara, Violine

Flageolett 2', Cornett 5fach [as Mixtur replacement, not as solo stop!]

 

III. Manual:

8': Voix céleste, Germshorn, Vox humana, Tibia, Aeoline

4': Traversflöte, Dolce

 

Pedal:

32': Untersatz

16': Principalbass, Subbass, Violon, Posaune, Harmonikabass

8': Octavbass, Violoncell

 

 フランチスカの遺産はこのオルガンの再建のために使われ、1897年1月30日に献堂された(楽器そのものは第二次世界大戦で焼失した)。仕様が示すように、8フィートのストップは幅広い連続性の濃密な基本の音に向かう傾向である。メルツは3つのストップ固定コンビネーションも配置し、足鍵盤の右上にクレッシェンド装置をおいて起動できるようにした。しかしながらこのオルガンはもはや円錐弁室を有しておらず、空気圧式装置に置き換えられている。しかしラインベルガーの書法は、レーガーのそれとは違い、これらの新しい技術の可能性にはほとんど影響を受けなかった。終曲のトッカータは機械式装置の楽器で問題なく演奏できる。この楽章は- 幸いにもだれか言うかもしれないが - 例えばヴィドール、ベールマン、ヴィエルヌらが作り出したトッカータのような、輝かしい花火大会の特徴が欠如している。しかしながら控えめなエチュードのような開始部の後、音楽は論理的にハイライトな箇所(例えば99小節目と162小節目)があり、それは1893年から94年にかけての印象的なオルガン協奏曲第2番 作品177に向けて達していく。