バイオグラフィー - 生涯
※兄弟姉妹に関しては資料によりまちまちの記述となっています。別項「ラインベルガの兄弟姉妹」にまとめましたのでそちらを参照してください。
1839年3月17日に生まれたラインベルガーは、当初ガブリエルと名付けられ、二日後生家に隣接するスイスのクール管区による教区教会・聖フローリン教会にて洗礼を受けた。洗礼名はヨーゼフ(Joseph)だった。彼の出生証明書にはこう書かれている。
「ガブリエル・ヨゼフ・ラインベルガー 1839年3月17日ファドゥーツ生まれ。リヒテンシュタイン侯の年金運用官、ヨハン・ペーター・ラインベルガーとその妻エリザベス、旧姓カリギエット、との子供」と。
理由は定かではないが後年彼は、自らの意志で公式にファーストネームとミドルネームを逆転させて人生を送るようになる(その際JosephをJosefとした)。1854年、15歳になる直前の2月から3月にかけて三つの「前奏曲とフーガ(JWV 10, 13, 16)」を書いたが、その自筆原稿表紙には「Jos. Rheinbergerによる三つの前奏曲とフーガ、ルター教会音楽監督、ミュンヘン音楽院教授にして最も偉大な彼自身の教師J. G. Herzogに献呈」と書かれている。また1859年ペータースより初めて出版した『4つのピアノ曲op.1』の表紙も「Josef Rheinberger」となっている。
ラインベルガー家は助教師にしてオルガニストのセバスチャン・プーリー(1808-1889)をヨーゼフの姉たちヨハンナとアマリアのピアノ教師として招いた。彼はチロル地方のシランドロ(北イタリアの自治州にある町)出身で、ファドゥーツの隣にあるリヒテンシュタイン最大の都市シャーンに住んでいた。プーリーはほどなくして、二人の姉よりもヨーゼフの音楽的才能を見出し、ピアノおよび和声学のレッスンを開始する。プーリーとは生涯を通じて交流が図られるのであった。
ヨーゼフは、生家の隣にある聖フローリン教会でオルガニストとして務めを果たすようになる。まだ体の小さな彼のために足鍵盤には特殊な装置が取り付けられた。またこの頃、最初の作曲を行う。ピアノ曲やオルガン曲、オルガン伴奏による3声のミサ曲などであった。
ファドゥーツで行われたコンサートにおいて感銘を受けたフェルトキルヒ(フォアアールベルク)出身の裁判所長シュランメルはヨーゼフに教育を受けさせるためにフェルトキルヒに送るよう、父親を説得した。またアマチュア弦楽四重奏団の一員が絶対音感を持っていることに気づき、やはりフェルトキルヒのシュムツァーの指導を受けることを父親に薦めている。
ヨーゼフは隣国オーストリアはフォアアールベルク州のフェルトキルヒに移り、フィリップ・シュムツァー(1821-1898)に音楽の手ほどきを受けることになる。彼はチェリストで合唱指導者でもあり、作曲家でもあった。シュムツァーはピアノ、オルガン、和声の手ほどきをし、バッハ、モーツアルト、ベートーベンといった巨匠の作品を教材に作曲も教えたのであった。ヨーゼフは生涯を通じてモーツァルトを尊敬したが、それはこの頃に受けた教育に影響であり、また音楽家として生きていく道を選びだしたのもこの頃であった。シュムツァーの下で1年間住み込みであったが、聖フローリン教会でオルガニストとしての毎日曜日や祭日の務めも果たさねばならず、フェルトキルヒからファドゥーツまでの道のり(約15Km)を徒歩で往復するのであった。
フェルトキルヒでヨーゼフと知り合った、チロル出身の作曲家マテウス・ナギラー(1845-1874)はヨーゼフの父親にミュンヘン音楽院へ進学させるように勧めた。10月16日、ヨーゼフはフランツ・ハウザーが院長を務めていたミュンヘン音楽院(王立バイエルン音楽院、ハウザー音楽院とも)へ進むため、ミュンヘンへ移り住む。父ヨハン・ペーターはしばしば故郷のファドゥーツに帰ってくるよう促していたが、ヨーゼフはこのバイエルンの州都を終の棲家とするのであった。音楽院での専攻はピアノと音楽理論。前者は当初クリスティアン・ヴァナーに、翌年からユリウス・エミール・レオンハルトによるレッスンを受けた。後者の指導はユリウス・ヨーゼフ・マイアーであった。
院長であるフランツ・ハウザーの意志に反し、プロテスタント・福音派の聖マタイ教会にてヨハン・ゲオルク・ヘルツォークよりオルガン奏法の無料指導を受けるようになる。この年の年の瀬、ヘルツォーク推薦により聖ルートヴィヒ教会での無給の副オルガニストの務めを引き受ける。これまでヨーゼフはカトリック教会の伝統においての教会音楽に親しんでいたが、大バッハの4代下の直系の弟子であるヘルツォークと聖トーマス教会カントールで、バッハ協会創設者のモーリッツ・ハウプトマンの弟子であったユリウス・ヨーゼフ・マイアーから大バッハ伝来のオルガン奏法やプロテスタント教会音楽を彼から学んだ。
1869(30才)
4月末(28日?)にミュンヘン学生合唱協会の演奏でワーグナーの『使徒の愛餐』を聴き刺激を受ける。5月3日には『Das Tal des Espingoエスピンゴの谷 op.50』を完成。以降男声合唱曲を書き始める。同月23日歌劇『七羽のカラス Die sieben Raben op.20』の初演が行われ、大成功を収める。同月『 水の妖精 作品21』を完成(初演は1872年5月)。7月20日『ミサ・ブレヴィス ニ短調 作品83』の第2稿を完成(演奏:1873/01/19)。12月『レクイエム 変ロ短調 op.60』を丸々改訂して完成させる(11/03~12/05)
1870(31才)
春、不完全な歯の治療による敗血症にかかる。ヨハン・ネポムク・ヌスバウム教授によって執り行われた顎の手術により、一命を取り留めた。この手術の後、ラインベルガーの健康状態は蝕まれ、終生悩まされることになる。術後の6月、『ピアノ四重奏曲 変ホ長調 op.38』を完成。同曲はヌスバウム教授に献呈された。
7月15日普仏戦争勃発。書き直したレクイエムop. 60を12月12日オラトリオ協会により初演。「ドイツの戦争1870 - 1871年に倒れた英雄の記憶」として献呈する。
1871年(32才)
1月フランツ・ヴュルナー(1932-1902)とともに、”監督官”として、音楽院の運営を引き受ける。そして1月5日には学長代行的立場として、教師たちおよび学生たちに公式に紹介される。ファニーは「半分学長」という表現を使い、その立場は実質的には「代行」ではなく、ヴュルナーと同等であった。これはヴュルナーがオーケストラと声楽のクラスを管理し、ラインベルガーがオルガン、ピアノそして理論のクラス受け持つ体制とされた。
3月右手の人差し指と中指の間に皮膚潰瘍を発症。痛みは深刻で、書くことも音楽をすることもできない状態が続く。
郷里ファドゥーツに新たに建設された教区教会のために、手鍵盤3段のオルガンの計画を行い、エッチンゲンのシュタインマイアーに発注される。
1872年(33才)
2月4日、手に痛みを抱えながらも歌劇『塔守の娘 作品70』の作曲を完成。
この年の終わり頃、強い頭痛によって健康状態に障害が出る。
1873(34才)
4月17日、兄アントン死去。4月23日に喜劇オペラ『塔守の娘』(ミュンヘン宮廷劇場)の初演があったために、告別式に参列することができなかった。
夏、モーツァルトの「ラウダーテ・ドミヌム(聖証者の荘厳晩課 KV 339より)」を編成し、ベルリンのジムロック社から出版する。ハンス・フォン・ビューローがイギリスで何度も取り上げ、好評を博す。
10月4日、ファドゥーツで母マリア・エリザベスが死去。彼はこの年の夏に母親を訪ねたばかりだった。
1874(35才)
1月25日、ブラームスが歌劇『七羽のカラス』の序曲をウィーンで演奏する。グランツでは、『塔守の娘』が好評のもとに上演される。
3月25日父ヨハン・ペーター死去。3月27日、完成したばかりの教区教会のオルガンで父親のためにレクイエムを演奏する。4月3日、彼は受け入れ検査および納品のコンサートを行い、枝の主日のミサにおいて聖歌の伴奏を行う。
夏、ヴィルトバート・クロイトで休暇中、フィレンツェ管弦楽協会よりオーケストラ作品の依頼を受ける。音楽学者アウグスト・ヴィルヘルム・アンブロスへの手紙では「私はフィレンツェの管弦楽協会から委嘱を受けたことを驚きながら、交響曲を書いています。ドイツの協会からは依頼を受けたことはなかったのに」と書いている。9月に夫婦でフィレンツェ、ヴェローナ、ミラノ、ボローニャ、ベニス、ボルツァーノを汽車で旅行する。フランチスカはこの旅行を『ブレンナー峠の向こうで -休暇旅行-』と題した旅行記にまとめて出版を行った。ハンス・フォン・ビューローはラインベルがーに「今後はラインベルがーを携えて旅行します」と述べている。
10月『ミサ・ブレヴィス ニ短調 作品83』の第2稿を出版。初版の楽譜表紙には四声の男声合唱と誤植される。
1875(36才)
年明け早々に『フィレンツェ交響曲 作品87』を作曲。清書の完成は2月23日。初演は3月28日にミュンヘンのオデオン・ホールで、作曲家自らの手により行われた。フィレンツェでの初演は同年5月6日にフィレンツェ管弦楽協会によって執り行われ、同協会に献呈された。
5月『オルガンソナタ 第3番 ト長調 作品88 "田園"』を完成。かつての師セバスチャン・プーリーに献呈。
1876年(37才)
この年のはじめ『ピアノ協奏曲 変イ長調 op. 94』が完成。7月29日にミュンヘンのオデオン・ホールにて弟子ルードヴィッヒ・リッター・フォン・ドゥニッキにより初演された。
ラインベルガーの作品、特に室内楽は、ヨーロッパの広い地域で知られるようになり、フランスでも徐々にこれらの作品に関心が持たれ始める。パリの音楽出版社J. マオーは、これらの出版権を獲得するために提案を送る。
1877(38才)
フランクフルトに新設されたホッホ音楽院の監督を依頼される。州内務省がラインベルガーのためにさまざまなポジションの調整を行ったが、ミュンヘンに残ることとなる。
7月26日Carl von Perfall男爵よりフランツ・ヴュルナー(Franz Wüllne)の後任として諸聖徒宮廷教会の音楽監督としての宮廷楽長のポストの打診を受け、8月4日申し出を受けることを決意する。
9月バイエルン王・ルートヴィッヒ2世(1845-86)によって宮廷楽長に任ぜられ、キャリアの頂点を極める。オラトリオ協会の指揮から退く。
1878(39才)
元旦バイエルン王より聖ミヒャエルの第1級功労勲章の騎士十字章を授与されたとの知らせを受け取る。
1月13日から18日にかけて『ミサ曲 変ホ長調 作品109 "Cantus Missae"』を作曲。選出されたばかりのローマ教皇レオ13世に翌年献呈。
5月『オルガンソナタ 第5番 嬰へ長調 作品111』を完成。このあたりからオルガンソナタの量産体制に入る。
1879(40才)
年頭ケルビーニの英語版伝記を独訳する(Edward Bellasis著「Cherubini. Memorials illustrateive of his life」)。ファニーによると“英語は独特のエネルギーがある”とのこと。翻訳はほとんど終わっていたが、完成しなかった。
http://albert31st.blog104.fc2.com/?mode=m&no=363 より