少年の夢とセカンド・パーフェクト


 以下の文章は2016年3月27日(日)に行われた、「混声合唱団 K-mio Chor 第3回演奏会」にてプログラムに採用された『Kyrie JWV155』と『Messe in C, op.169』のために書き下ろした解説である。ただし同演奏会のパンフレットにおいては字数が多すぎると評判が悪く、編集長にばっさりカットされてしまっている。

 割にパンフレットの解説では重要な点が欠けているため、ここに公開する。なお当初は準備したPDFファイルの画像ファイルでごまかす予定であったが、一部誤字があったため、改めてテキスト化している。

 

 また補足すると、本文中では触れていないが、『Kyrie JWV155』に関しては、マニュスクリプトを検討したところ、フリードリッヒ・ホッフマイスター音楽出版社(ライプツィヒ)から出た楽譜は、相当数の間違いが発見されたため、Rheinbergerianaにて修正を行った。現在日本でも同社の楽譜は入手可能であるが、もし演奏してみたいと考える団体・音楽家の方は一度弊サイトに相談することをおすすめする。なんせ冒頭の第2ヴァイオリンから間違っているから。

 

無断引用・転用・流用を禁じる

指 揮 :神尾 昇

(ピアノ :川原彩子)

ソプラノ:原 千裕

アルト :紙谷弘子

テノール:青地英幸

バス  :泉 良平

オルガン:西 優樹

打楽器 :米山 明

弦楽合奏:8jo室内合奏団



 1839年3月17日、ヨーゼフ・ガブリエル・ラインベルガーはヨーロッパの小国リヒテンシュタインの首都ファドゥーツに生まれた。7才で生家に隣接する聖フローリン教会のオルガニスト、12才でバイエルン王国のミュンヘン音楽院に入学。20才にして母校の教師に就任、のちに教授・学長。その後もミュンヘンオラトリオ協会の指揮者就任。宮廷楽長の就任。ローマ教皇へのミサ曲献呈による叙勲。バイエルン王国からの一代貴族への序列。ミュンヘン大学からの名誉哲学博士号の授与。欧米中の音楽学生から師と慕われるなど、一見その人生は栄達を極めたと言っていい。だが、実際は波乱に満ちた一生でもあった。

14才。モーツアルトの塑像とともに
14才。モーツアルトの塑像とともに

Kyrie a-moll, JWV155

 

 ラインベルガーの父ヨハン・ペーターは領主リヒテンシュタイン侯の執事(年金運用官)であったが、小国のいわば国家公務員の収入はたかが知れていた。息子の音楽の才能は認めていたが、常にその学費は悩みの種であり、音楽の道を進むことを諦めるように口にしていた。周囲の熱心な説得が無ければ、彼は音楽家として大成はしえなかったのである。ミュンヘン音楽院に進むとき、その学費を捻出するためラインベルガーはフランクフルトのモーツアルト財団の奨学金を得ようとし、1851年秋に申請を行った。年間400ギルダーの奨学金はのどから手が出るほどの魅力であった。出願の際に提出されたのが『混声合唱と弦楽5部合奏のための Kyrie a-moll, JWV155』その他であった。残念ながら審査員たちは若者の才能は認めていたが、その栄誉は同世代でケルンのマックス・ブルッフに与えられた。奨学金を勝ち得なかった彼は、自信の力で未来を切り開かなければならなかった。

 同曲は出願後長らく失われてしまっていた。その存在は研究者ハンス=ヨーゼフ・イルメンの著作『ガブリエル・ヨーゼフ・ラインベルガーの主題別音楽作品カタログ』にてJWV155(*)と記載されていたが、ファドゥーツのラインベルガー資料館にても楽譜は発見されていなかった。しかし2013年に発行された『我が国に新しい音楽を フランクフルト・モーツアルト財団年間(1838-2013)』の編纂に際して、フランクフルト大学ウルリケ・キーンツレ博士によって再発見。ラインベルガー資料館のルパート・ティーフェンタラー館長によって真筆と鑑定された。

ウルリケ・キーンツレ博士
ウルリケ・キーンツレ博士

 キーンツレ博士とヘルムート・パーテル博士によって校訂のうえ、2013年12月8日フランクフルトのヘリッガイスト教会にてヘルムート・パーテル博士指揮/ニーバー・シュラー合唱団の演奏により21世紀世界初演がなされた。そして2014年が作曲家の生誕175周年であることを記念し、フリードリッヒ・ホッフマイスター音楽出版社(ライプツィヒ)より出版がなされた。今回の演奏は"私設ラインベルガー研究室"にてフリードリッヒ・ホッフマイスター社からいち早く楽譜を取り寄せ実現した。なお序文にてキーンツレ博士は1851年秋の出願時を13才としているが、ラインベルガーは1839年3月生まれであり、当時は12才である。また総譜とピアノ・リダクション譜においてダイナミクス・マークとフレージングに齟齬が発生しているため、マニュスクリプトのファクシミリを取り寄せ、その他出版譜の明らかな誤謬箇所は指揮者・神尾昇氏により修正を行っている。マニュスクリプトをご提供くださったウルリケ・キーンツレ博士には、この場を借りて深く感謝の意を表す。ありがとうございました。


51才
51才

Messe C-Dur, op.169

 

 まず語られないがラインベルガーは片頭痛に悩まされていたり、歯の治療の不備により敗血症で命を落としかけたりなど、どこか常に病弱であった。音楽院卒業後は「新進のヴィルトオーゾピアニスト」と目されていたにもかかわらず、30才手前のころから右手の人差し指に疾患を抱えており、鍵盤奏者としての道を諦めている。故に彼の経歴でオルガニストと称するのはあまり正しくない。彼の経歴では作曲家・教育家・指揮者の比重が非常に高い。病弱なラインベルガーは当時の高名な音楽家たちのように、世界中を飛び回って演奏活動は出来なかった。

 また19世紀のドイツのカトリック宗教音楽はグレゴリオ聖歌やパレストリーナなどに理想を求め規範とし、教会音楽の清貧・浄化を目的としたセシリア運動が盛んであった。その音頭はレーゲンスブルクに拠点を持つ「総ドイツセシリア協会」が取り仕切っていた。ラインベルガー自身もセシリア主義者であったが、両者は敵対していると言っても過言ではなかった。日本では誰も自覚して演奏しないが、ラインベルガーのミサ曲(宗教曲)のほとんどには欠陥があり、常に「総ドイツセシリア協会」から非難を浴びせられていた。『ミサ曲 ヘ短調 作品159』では欠陥が生じないように作られていたが、「協会」からの攻撃は熾烈を極めていた。今回の『ハ長調』は『作品159』同様典礼での使用に問題が発生しないように慎重に作られており、これを「セカンド・パーフェクト」とも呼ぶ。なおJWV155のレギュレーション違反については紙幅の関係で割愛する。ラインベルガーは反論を行わなかったが、「総ドイツセシリア協会」との反目は常に悩みの種でもあった。そして8才年上の妻、フランチスカ(ファニー)の病いもまたラインベルガーを悩ませる要因でもあった。

 

 『ミサ曲 ハ長調 作品169』は早書き・そして絶大な人気を誇っていたため作品の発表はすぐに行われていたラインベルガーにしては珍しく、9年の歳月をかけて作曲がなされ、さらに2年の歳月を経て世界初演が行われた。1882年43才の頃に最初の構想が練られたがそのまま放置されていた。4年後友人のヨーゼフ・シュタウプ神父による管弦楽を伴うミサ曲のリクエストに応える形で、さらに数年を経た1891年に完成させている。この間親族や2人の恩師の死。指の疾患の再発によりペンも持てない状態。「総ドイツセシリア協会」が『ミサ曲 ヘ短調 作品159』を巡ってドイツ・オーストラリアにて論争を引き起こす。そして妻フランチスカ(ファニー)・フォン・ホッフナースが数年前よりリュウマチ性の疾患にて体調を崩していたが、この年から床に服していた。91年5月 - 作曲家は52才 - に『ミサ曲 ハ長調』は完成したが、妻の看病のためこのころラインベルガーは作曲・発表が滞る時期となる。妻は精神的疾患の兆候も見せ、92年の大みそかに息を引き取っている。そのため代表作クリスマス・カンタータ『ベツレヘムの星 作品164』の世界初演には立ち会えなかった。このように『ミサ曲 ハ長調』に取り掛かっていた時期は作曲家の人生において最も暗くつらい時期であった。

 

 もう一つラインベルガーを知る要素として、彼が模範としていた先達にモーツアルトを上げていることが重要である。モーツアルトはどんなに病気・生活苦・家庭環境・死など、つらい面・個人的な事情を一切作品には反映させない人であった。それはラインベルガー自身が音楽家として見習っていた創作態度である。故に彼の代表作オルガン・ソナタ群において、同時期に作られた『ソナタ14番』と『ソナタ15番』たちは、それまでとは違った様式かつ非常に明るい雰囲気でおおわれている。微塵も暗さを見せず、常に前向きなのである。そう『ミサ曲 ハ長調』も深刻さなど垣間見させず、明るく明日に突き進んでいく。ラインベルガーは全ての作品において、個人的な感情を表すことを避けていた。そこには個人的な苦悩を超越し、作曲家は信仰心を表している。そう個人的な事情をさしはさまなかった故に、真逆の表現が行われてるのだ。

 

 『ミサ曲 ハ長調』はセシリア主義者としてのラインベルガーとしては珍しく4人の明確なソリスト、フル編成のオーケストラを伴い「大ミサ曲」と称するにふさわしい作品である。またこの曲は出版された彼のミサ曲においてテキストに不備はなく「セカンド・パーフェクト(**)」とも呼ばれる。また彼はセシリア主義者だったゆえに、管楽器を全てオルガンに置き換えた版(バージョン1)を用意していた。本作品は作曲時は当初作品番号167が与えられるはずだったが、出版時に169に改められた。今回K-mio Chorではこのバージョン1にて全曲初演を行う。ただし本日の演奏においてはティンパニーのみ残した、私設ラインベルガー研究室監修バージョンにて執り行う。その発想は彼の『オルガン協奏曲2番 ト短調 作品177』において『1番 ヘ長調』に含めなかったティンパニーが非常に音楽を引き締めていることに着想を得ている。

 

 同曲は2014年3月23日に福島市音楽堂(福島市)で開催された「第7回声楽アンサンブルコンテスト全国大会2014」において、郡山市立郡山第五中学校合唱部によって本邦初演がなされた。その際伴奏は弦楽5部、ポジテフオルガン、フルートとクラリネットという編成であった。ただしその際はKyrie、Gloria、Agnus Deiの3曲しか取り上げられていない。2015年4月にYouTube上にアップロードされていたが、7月上旬には削除されている。コンテストにおいても(ネット上では)同曲が演奏された記録は載っておらず(なんと個人のブログでしか確認できない)、また同中学校に問い合わせを行っても返答はない。同校合唱部の演奏よりも古い記録は見いだせていない。


ハンス=ヨーゼフ・イルメン『ガブリエル・ヨーゼフ・ラインベルガーのテーマ別音楽作品カタログ』P565より。なぜ失われた作品なのに冒頭第1ヴァイオリンの主題がのっかているかは謎。
ハンス=ヨーゼフ・イルメン『ガブリエル・ヨーゼフ・ラインベルガーのテーマ別音楽作品カタログ』P565より。なぜ失われた作品なのに冒頭第1ヴァイオリンの主題がのっかているかは謎。

 この度K-mio Chorにて『キリエ イ短調 JWV155』の本邦初演と『ミサ曲 ハ長調 作品169』の全曲初演を執り行う。前者は前途多難とはいえ胸に希望を携えていた12才の作品。外部からの最新音楽情報などあまり入って来ない、片田舎の少年が作ったとは思えないほど「驚くべき作品」(ウルリケ・キーンツレ博士)である。かたや奇しくも円熟の極みを重ねた52才の頃の作品。40年の時を経た邂逅である。また「イ短調」と「ハ長調」というともに調号の無い作品が初演と全曲初演を日本で、これまた偶然ながら本年は作曲家没後115年というメモリアルイヤーに。そして『ミサ曲 ハ長調』の世界初演は妻フランチスカが亡くなった翌年、1893年の復活祭の日曜日(4月2日)に聖ガレン大聖堂においてエドアルド・シュテーレの指揮の下執り行われた。そして本日3月27日は本年の復活祭の日曜日に当たる。多くの偶然が重なっていることは運命としか言いようがない。また今回の演奏会に際し国際ヨーゼフ・ガブリエル・ラインベルガー協会事務長でもあるルパート・ティーフェンタラー氏の好意により、貴重な資料をいただいた(2014年ラインベルガー資料館開催:Exhibiton to Rheinbergers Musical Netwok Rollup)。また同協会におけるラインベルガー演奏会カレンダーにも記載され、世界に向けて発信を行った。日本人団体としては初めてのこととなる。

 

(*)JWV=Jugendwekverzeichnis 少年期作品目録。作曲家自ら1856年から1859にかけて習作期における作品をテーマ別にまとめたカタログ。

(**)彼のほとんどのミサ曲には典礼上の欠陥・不備があるが『作品169』には基本的に瑕疵は認められない2つめの作品のため「セカンドパーフェクト」とも称される。