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Messe in d op.83

(Missa brevis)

Gloria。1861年の版 via BSB Mus.ms. 4558-2
Gloria。1861年の版 via BSB Mus.ms. 4558-2

 ラインベルガーは少年期に5曲のミサ曲を作っている。また単品の楽章のいくつか作っている。それらは習作期の物として作品番号は与えられず、出版はされなかった。『ミサ曲 ニ短調 作品83(ミサ・ブレヴィス)』は成人して以降、最初に作曲したミサ曲である。作品番号としては、作品60の『レクイエム』(1865)と作品62の『ヘ短調の「短くかんたんな」ミサ曲』(1871)よりも後になっているが、実際に手を付けたのは両者に先行している。まず複数の下書きから1861年に手を付け始めている。1869年の第2稿にて大がかりな改訂が行われ、さらに1874年の出版に際しさらなる改訂が行われている。

Gloria。1869年の版 via BSB Mus.ms. 4558-1
Gloria。1869年の版 via BSB Mus.ms. 4558-1

 最初の版による初演は1864年の聖セシリアの日(11月22日)、ミュンヘンの聖ジョン教会にて行われた。この件は翌日地元紙が報じている。次の報告は1869年になる。7月17日(火)に「クルトはミサ曲に取り掛かっている」という妻フランチスカの日記にて第2稿の制作過程がうかがえる。次の日曜日にはBenedictusに達し、7月20日(火)に完成させている。この第2稿の初演は直ぐには執り行なわれず、ミュンヘン・諸聖徒教会にてフランツ・ヴュルナーの指揮にて、1873年1月19日に行われるまで待たなければならなかった。フランチスカは「とても美しく厳粛に聴こえました」とその模様を伝えている。

 

 『ニ短調のミサ曲』が最終的に印刷されるまではまだ時間がかかっている。主導権は出版社のフォアベルク社が握っていた。同社は1874年5月18日付の手紙で、「4声の歌 (おそらく『Liebesgarten, op.80 愛の園 作品80』)」の出版に同意し、同時に他の4声の作品と室内楽に興味を示していた。この際作曲家はミサ・ブレヴィスを送付した模様である。7月29日にフォアベルク社から献辞先のシャッハホイトル教授の正しいスペルの問い合わせがあった。次の報告は編集が完了するのを待たなければならない。1874年10月12日付けのフランチスカの日記によると、新しく届いた『弦楽四重奏曲 作品82』の印刷に関して述べた後、

Gloria。現行の版。拍が2/2から4/4になっている
Gloria。現行の版。拍が2/2から4/4になっている

「ミサ・ブレヴィスも到着しました。残念ながらとてもひどい間違いが表紙に記されています。読み上げると、「4声の男声合唱」のために。馬鹿げています。しかしそれ以外は立派に刻まれています。」

 

とつづられている。

 

 現存している楽譜の表紙には「4声の(混声)合唱のため」と正されているので、「とてもひどい間違い」は直ぐに修正されたものと思われる。1874年10月18日づけのフランチスカの日記から、一週間後にミュンヘン宮廷図書館に収められたことがわかっている。ラインベルガー自身はこの曲にとても自信があった模様で、宮廷教会音楽監督として少なくとも13回指揮し、ヴぇルナーのタクトの元でも数度演奏されている。

 

 

 

このミサ曲も

Gloriaでは

[Qui tollis peccata mundi], suscipe deprecationem nostram.

Qui sedes ad dexteram patris, miserere nobis.

Quoniam tu solus sanctus, [Tu solus dominus.]

 

Credoにおいては

Crucifixus etiam pro nobis [sub Pontio Pilato:] passus, et sepultus est.

Et resurrexit tertia die, [secundum scripturas.]

少し進んで

[Qui cum patre,] et filio simul adoratur, et conglorificatur:

 

の[]で囲んだ部分が欠落している。