一緒にいたかった人

-Abendlied(Bleib bei uns,)考-


 1852年5月11日、のちにラインベルガーの妻となるフランチスカ(ファニー)・イエーバーフーバーは将校のルートヴィッヒ・フォン・ホッフナースと結婚式を挙げました。ただしルートヴィッヒは軍事的にも、政治的にも野心が全くない人でした。日がな海の絵を描くことを趣味とし、若妻のもとを離れ家庭を顧みずに家を開けることが多い人でした。夫婦の間には娘が1人もうけられましたがほどなく亡くなります。またその後ルードヴィッヒは結核にかかり病床につき、2人の関係は冷え込んでいました。時期ははっきりしませんが、フランチスカはミュンヘン・オラトリオ協会に参加し、日常の憂さを晴らしていました。

 

 1854年11月、ミュンヘン・オラトリオ協会の指導者ペールファール男爵が音楽院を卒業したばかりの若くて新進気鋭のピアニストをコレペテトゥーアとして雇い入れました。ヨーゼフ・ガブリエル・ラインベルガーです。この時15才。

 

 ティーンエイジャーの紅顔の美少年の参加は注目の的です。協会の女性陣が色めき立ちます。ブランチスカも同様でした。この時2人は初めて出会います。

 

 1855年ラインベルガーはのちに『Drei geistliche Gesänge op.69 三つの宗教的歌 作品69』の3番としてに収録される「Bleib bei uns (一緒にお泊り下さい。もう夕方ですし日も傾いてまいりました)」を作曲します。曲集の成立過程は別項を参照してください。

 

 1857年6月10日にブランチスカの母親が娘のために開いた私的ソワレに1人のピアニストを招きました。故意か偶然か、ラインベルガーでした。2人は用意されていた、ハッセの『テ・デウム』の4手ピアノ連弾バージョンを演奏して楽しんだりしました。彼はブランチスカが才媛の詩人そして玄人はだしの歌手としてだけではなく、ピアノも嗜む人と認識します。また打ち解けた雰囲気からラインベルガーは新作の歌曲やピアノ曲をホッフナース家に持ち寄り、足しげく通うようになります。2人の距離は急速に縮まりました。

 

 ラインベルガーは8歳年上の人妻に、抑えられない感情を持ちました。フランチスカも若い音楽家に心を奪われました。それは決して許されない関係でした。

 

 ただ2人とも敬虔すぎるカトリック教徒であったため、プラトニックな関係でした。フランチスカの離婚など考えられません。ですが、2人は演奏にかこつけて逢瀬を重ねていました。1857年12月にミュンヘン・オラトリオ協会にて『イェフタの犠牲 Jepftas Opfer JWV 61』をフランチスカによるタイトルロール、ラインベルガーのピアノで演奏を行いました。この頃ラインベルガーの妹、アマリエ(マリ)が、ミュンヘンに上京しラインベルガー宅で一緒に暮らしていました。妹が2人の関係をどこまで把握していたかはわかりません。

 

 1865年3月12日、病床に就いていたフランチスカの夫ルードヴィッヒが亡くなりました。傷心の彼女のためにラインベルガーはAve Mariaを作曲し、後に彼女が初演しました。2年後、1857年4月24日2人は聖アンナ教会で結婚式を挙げます。

 

 ラインベルガーが「Bleib bei uns」を作曲した動機は想像するしかありません。初稿が完成した日と、2人の距離が縮まったフッフナース邸に招かれた日では日程が逆です。ホッフナース邸に招かれるまで、彼女にどのような感情を持っていたのかもわかりません。しかし結婚前にこの曲はミュンヘンオラトリオ協会にて2度演奏しており、その合唱団中にフランチスカが実際に歌ったことでしょう。1863年には改訂を成されています。後付けかもしれませんが、でもラインベルガーが「一緒にいたい」と願った人は妻フランチスカ・フォン・ホッフナースだったのではないでしょうか。

 

 あなたが一緒にいたい人はどなたですか?