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ピアノ五重奏曲 in C, op.114

via BSB Mus. Ms. 4586
via BSB Mus. Ms. 4586

Klavierquintett in C op.114
Violin 1, Violin 2, Viola, Cello

 

Allegro

Adagio

Scherzo: Vivo

Finale: Allegro

 

 1870年1月に『ピアノ四重奏曲 変ホ長調 作品38』を完成させて丸9年後、ラインベルガーは1878年の12月12月27日に『ピアノ五重奏曲 ハ長調 作品114』を完成させた。

 

 「四週間おきの日曜日、私たちは大掛かりな午後の音楽会を開催している」と、ラインベルガーは1879年1月30日付けの手紙でファドゥーツの兄ダヴィットにしたためている。「たくさんのお客が訪れます...そしてコンサートの水準でいくつかの素敵な音楽が作られます。訪問客にはコーヒーだけが振舞われます。でも、町の人々が述べるようにすばらしく準備します。ラインベルガー家では最高に音楽に接することができ、最高のコーヒーを味わうことができます、と。特に私の家内にとっての喜びのもとです」。

 

 ラインベルガー家ではピアノ四重奏曲(1870)、ヴァイオリンソナタ1番(1874)、ピアノ三重奏曲3番(1880)が初演されたことが確認されているため、この手紙の内容は数週間前に完成したピアノ五重奏曲もやはり内輪内での初演の印象を基に書かれたのではないかと言われる。

 

第二楽章「Adagio」下書きの結部。わかりづらいが3段目の赤囲みに「mit 1000 Unterbrechungen 1000の中断を伴ない」と書き込まれている。via BSB Mus.ms. 4739 b-2/P64
第二楽章「Adagio」下書きの結部。わかりづらいが3段目の赤囲みに「mit 1000 Unterbrechungen 1000の中断を伴ない」と書き込まれている。via BSB Mus.ms. 4739 b-2/P64

 作品は10月17日に完成させた『ピアノ三重奏曲 2番 イ長調 作品112』、11月10日に終了した『左手のためのピアノ練習曲 作品113』の前半3曲につづき、『ピアノ五重奏曲』のスケッチが開始された。第一楽章「Allegro」が11月19日、第二楽章「Adagio」は三週間というラインベルガーにすれば長い時間を費やして12月8日に終了。第三楽章「Scherzo」が12月10日。第四楽章「Finael」は12月15日にそれぞれ終了している。清書の完成日は記されていない。「Adagio」の最後の和音の後、フランチスカが「1000回の中断を伴ない mit 1000 Unterbrechungen

 」とすまなさそうに書き込んでいる。

 

 第四楽章(Finale)は1860年3月に作られ1871年に発表した自作の歌曲「Lerchen in heitrer Luft 澄み切った空のひばり」(Wache Träume 白日夢 op.57の3)を75小節目以降に引用している。すでに第一楽章の58小節目以降、132小節目と220小節目にも現れる小鳥のさえずりを暗示させるモチーフが歌曲の引用を予告している。第四楽章での使用ということは、もしかしたら、自作歌曲を引用したシューベルトの『ピアノ五重奏曲 「鱒」D667』を意識しているかもしれない(ただしシューベルトのそれは編成がヴァイオリンが一丁とコントラバスがあるため少し違うが)。この五重奏曲は「ひばり」とニックネームをつけるのが妥当だろう。この旋律はお気に入りだったのだろう、のちに『ピアノトリオ 4番 ヘ長調 作品191』第二楽章(Adagio molto)第2主題(45小節目以降)にも転用されている。

 

 「1000回の中断」とはいったいなんなのであろうか。1878年以降は右手人差し指の疾患による激痛がピークに達しており、鍵盤に触るどころか執筆もままならい状態であった。1楽章に3週間も時間がかかった一番の要因は、やはり指の痛みではなかったのではないだろうか。そのほかにも病弱な作曲家を慢性に悩ませていた病気だったかもしれない。だが作品にはそのような個人的事情など作品では微塵も感じさせない。

 

オレンジの付箋の箇所(練習番号O75小節目チェロから)に「Lerchen in heitrer Luft 澄み切った空のひばり」の引用されている。その後135小節目(練習番号P)、207小節目、255小節目、299小節目と4回再現される
オレンジの付箋の箇所(練習番号O75小節目チェロから)に「Lerchen in heitrer Luft 澄み切った空のひばり」の引用されている。その後135小節目(練習番号P)、207小節目、255小節目、299小節目と4回再現される

 『ピアノ五重奏曲』はこれまでの室内楽とは違い、幅広く世間には広まらなかった。公的演奏は作曲から12年後の1891年2月27日のまで待たなければならい。しかし未確認であるが、フランチスカの日記に、「ラインベルガーの五重奏曲」が1881年1月ミュンヘン音楽院で演奏されたと報告されている。『弦楽五重奏 作品82(1874)』ではすでに初演から5年が経過しているため、フランチスカがいう「ラインベルガーの五重奏曲」はピアノ五重奏曲 作品114が妥当である。

 

 1891年2月の演奏はヘックマン四重奏団とピアニストのイシドール・ザイスによりケルンのギュルツェニヒで行われた。プログラム解説では「新作、初演」書かれているとのことだが、これはケルンでの初演を意味しているではないかといわれている。ケルンでの演奏後、ザイスは以下のような手紙を書いている。

 

「親愛なる尊敬する友人よ!

 

おそらくここ8時から9時の間に、あなたの耳に鳴り響くことがある。その理由:私たちは深く心に刻み込まれた、愛らしくて甘い五重奏曲を再び演奏しています。私はこの再演奏を楽しみにしています。」