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ピアノ四重奏曲 in Es, op.38

via BSB Mus. ms. 4519
via BSB Mus. ms. 4519

Klavierquartett Es dur, op.38

ピアノ四重奏曲  変ホ長調 op.38

1870年

  1. Allegro non troppo
  2. Adagio
  3. Menietto: Andantino
  4. Finale: Allegro

  ピアノ・ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロによる、ラインベルガーの『ピアノ四重奏曲』は1870年1月に作曲が開始された(30歳)。それぞれの楽章の清書終了は第一楽章「Allegro non troppo」は1月17日、第二楽章「Andantino」が1月21日、第三楽章の末尾には日付が記入されていないが、おそらく第四楽章「Finale: Allegro」と同じ1月28日だろう。

 この曲の完成直後、作曲家は不完全な歯の治療により重度の敗血症をわずらい、命の危険にさらされていた。化膿した彼の顎はヨハン・ネポムク・ヌスバウム教授(1829-1890)による数度の手術により、かろうじて命をとりとめる事態であった。以後ラインベルガーの健康状態は回復不可能の状態まで蝕まれ、死の床に就くまで絶え間ない痛みを伴う病気に付きまとわれることになる。四重奏曲は彼の主治医ヌスバウム教授に献呈された。妻フランチスカはこの四重奏曲を「ヌスバウム四重奏曲」とも呼んでいる。 


 ピアノ四重奏曲はラインベルガーの室内楽の中で最も成功した作品であり、ヨーロッパ中を席巻したことをフランチスカが誇らしげに日記に記している。ハンブルグ、カッセル、ロンドン、サンクトペテルブルグ、クレーフェルトその他で演奏が行われている。

 

 1872年7月5日付け音楽評論誌・新ベルリン音楽新聞の批評では、「主題は内容的に高貴で重要なものであり、主題的技量は豊かで興味深く、固定観念臭は微塵もない」。作品は「大きな成功」を享受するだろうと予測した。

 

 1897年、ラインベルガーのかつての教え子ワルター・ペツェットがヘルシンキから「スウェーデンの主な真の批評は、あなたのピアノ四重奏曲の美しさを非常に褒め称え、私は明白に熱狂的にミュンヘンの先生の創作に触発されました」

と伝えた。

 

 作曲家の死亡記事を書いたアドルフ・ザントベルガーは当時の反応を

「ラインベルガーの室内楽では四重奏曲 変ホ長調 op.38が最高位に値します。それは代えがたく新鮮で、とりわけ最初の2つの楽章は剛健かつ豊かです。」

と要約している。

 

 ラインベルガーは1870年10月末から11月末の間にかけて、ピアノ四重奏曲をピアノ連弾四手用に編曲を行っている。当初はフランチスカが自分の手で編曲をで行うと提案したが「彼は私がいくつかのパッセージを対処することができないだろうと考え、彼自身が編曲を開始した」(10月26日の日記)。翌日ラインベルガーは「ピアノ四重奏曲に取り掛かり、それがうまくいっているか、そして簡単に演奏できるかどうかを検討するため私をピアノのそばに呼び寄せた」。作曲家は妻が喜ぶことをいつもかなえてあげるのだった。この編曲の際の日記でフランチスカは「ヌスバウム四重奏曲」と呼んでいる。

 

 ラインベルガーの室内楽は存命中は非常に人気の高かったが、その死後は先輩のメンデルスゾーン、シューマン、ブラームスの作品群のように生き残れず、同時代の多くの作曲家たち同様に急速に忘れ去られていく。