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ホルンソナタ in Es, op.178
Sonate Horn und Pianofore Es dur op.178
- Con moto
- Quasi Adagio
- Con fuoco
晩年のラインベルガーは病気と妻の死による孤独にさいなまれていたが、同時期に作られた『ホルンソナタ op.178』でもこの時期の詳細についてはなにも伝えてはくれない。この曲は1894年6月の11日、12日、17~18日にそれぞれ第1楽章から順に完成されていった。清書の完成は6月20日。同年4月に行われたオルランド・ディ・ラッソ没後300周年記念式典において、ヘルマン・フォン・リンクのテキストに作曲した、大男声合唱のための(ミュンヘンの6つの男声合唱団と第二歩兵連隊の大ブラスバンドが式典に参加した)『音楽芸術への讃歌 作品179』の作曲が契機になっている。この合唱曲の第2節が2年前に亡くなった信心深い妻フランチスカを思い起こさせたのではないかとも言われている。『音楽芸術への讃歌』と同様にソナタは変ホ長調に設定され、鋭くアクセントを付けた付点のリズムで、著しく強いマルカートで開始する。このような回帰はラインベルガーのスタイルとしてはとても異質なのだそうである。出版はキストナーからなされた。
初演は出版されてわずか数週間後、1894年12月10日ミュンヘン博物館のホールにて行われた。初演はリヒャルト・シュトラウスの父フランツ・シュトラウスの高弟にして音楽院でのラインベルガーの同僚ブルーノ・ホイヤーのホルン(ピアノ伴奏ハンス・ブスマイヤー)にて執り行われた。同曲はホイヤーに献呈されている。ホイヤーは1889年にフランツが宮廷管弦楽団の職を辞した後、後任に任命され、翌年王室室内楽団の演奏者になった。
ラインベルガーはキストナーに原曲を送った際に、中間楽章(II. Quasi adagio)をチェロとピアノのために編曲して同時に送付し「Idylle」と題して出版させた。その楽譜には5ページのピアノ譜と2ページのチェロパート譜で構成されていたが、表紙には花の装飾が新たに刻印され出版された。チェロへの編曲のために、ラインベルガーは変イ長調から親しみやすいト長調に移調し、かなり多くのマイナーチェンジによって、ホルンパートを弦楽器に適応させている。スラーは短くなり、強弱とアーティキュレーションが変化し、和音が加えられ(33、39。50小節目)、終端の音符は延長された(11、42、54小節目)。46小節目も直前に1拍弱起の音符が加えられている。ピアノパートも同様に改めて変更が加えられた。
ヴァイオリンやチェロのためのソナタは1870年代にドイツだけではなく、フランス・イギリスそしてアメリカでもしばしば演奏されていたことが、ラインベルガー没後の研究論文にて多くのプログラム・リーフレットが報告されていることにより、裏付けられている。だが徐々にそのコンサートホールでの地位はブラームスのヴァイオリンやチェロソナタ取って代わられた。だが、このホルンソナタだけは、ベートーヴェンにによるホルンソナタ(op.17 1800)と同様に、1939年のヒンデミットによるソナタのモデルとして取り上げられほど、標準的なレパートリーとして現代に伝わっている。