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ヴァイオリンソナタ Nr.1 in Es, op.77

  1. Allegro con fuoco.
  2. Adagio espressivo.
  3. Finale alla Tarantella. Vivace.

 1879年1月30日付のラインベルガーが兄ダヴィットに送った手紙によれば、ミュンヘンのラインベルガー家ではしばしば、友人同僚を招いてプライベートな音楽会を4週間おきの日曜日に開いていたという。その手紙にはマチネーとあるが、実際はその時々の都合でソワレだったりもしたようだ。そして彼は兄にこうしたためている。「町の人はこう言ってますよ。我が家ではミュンヘンで一番の音楽と共に最高級のコーヒーがふるまわれる、と。これには家内のとても喜んでいます」。出席者の中にはファニーのコーヒー目当ての者もいたという。音楽会では古今のピアノ曲・室内楽の演奏が催され、また自作の内々での発表の場でもあった。

 

 『ヴァイオリンソナタ 1番 変ホ長調, op.77』は、このような私的音楽夜会を機に作曲された。1874年2月7日のラインベルガー家の夜会において、音楽院での同僚のヴァイオリニスト、フランツ・ブリュックナーを招いてモーツアルトのヴァイオリンソナタが取り上げられた。このとき妻ファニーが日記に記しているのは

 

 「クルト(ラインベルガーのニックネーム)はブリュックナーとのモーツアルトのヴァイオリンソナタに耽っていた。彼は完全に満足していた......彼は興奮して叫んでいる。『これが音楽の喜び。ショーペンハウエリアンの音楽家どもは地獄に落ちろ!』と。それは深夜1時にかかりそうな魔法のような時間でした」

 

 翌日8日。興奮冷めやらないラインベルガーは自身のヴァイオリンソナタのスケッチを開始する。ラインベルガーの感情表現が描写されるのは非常に珍しい。彼の性格はほとんど描写されることはなく、その人物像の実態は全くわからない。「ショーペンハウエリアンの音楽家ども」とはワグネリアンや新ドイツ楽派の作曲家たちを指す。彼は基本的にブラームス派であったが、論争の渦中に巻き込まれるのを避けていた節があるので、このような発言が記録されているのは非常に珍しい。

 

 1870年代に2曲のヴァイオリンソナタが書かれ、ブラームスのそれに先立つこと5年、サン=サーンスに先立つこと10年早い。ホルスト・ゲーベルはロマン派のイディオムの一致に関してこれら3作品の比較を検討する必要があるという。だったらお前が検討しろと突っ込むのは野暮か w。ようはブラームスへ影響を与えたと言いたいのだろうが、本当かな~。

 ファニーは「新しい仕事で熱意と喜びに満ち溢れている」と、その創作途中の様子を日記に記し伝えてくれている。2月15日に第一楽章「Allegro con fuoco.」の浄書が完成。その際冗談と本気半分でファニーに主題を考えるよう促している、この際ハ短調で彼女が書いた「タランテラ」の主題を基にして、第3楽章の冒頭の主題に付け加えられる。2月16日に第二楽章「Adagio espressivo.」の浄書が完成。2月19日に全曲が出来上がる。

ファニーが提示した主題
ファニーが提示した主題
ファニーの主題を基に作成。この曲も夫婦合作といってよい
ファニーの主題を基に作成。この曲も夫婦合作といってよい

 2月20日にラインベルガーはブリュックナーと共に試演を行っている。「ブリュックナーは喜んでおり、美しいヴァイオリンの調べを称賛した。8日間でこのソナタは書き起こされ、演奏された」とファニーは日記に記しているがこれは11日頃から起算した計算なのだろうか? 2月27日にライプツィヒのフォアベルク社へ清書を送付し、4月18日に製本を受け取る。手数料は240マルクだという。

 

 ヴァイオリンソナタ1番は帝国領事テオドア・フォン・ドレイフス男爵(1840-1899?)に献呈された。献呈の理由はわかっていない。1869年9月8日に歌劇『七羽のカラス』の2回目の上演をドレイフスが訪れ、シュトゥットガルトのヴュルテンベルク宮廷劇場での上演の手配を申し出たからではないかと言われている。

 

 ハンス=ヨーゼフ・イルメンは1878年4月8日のミュンヘンオラトリオ協会のコンサートにおいて、フランツ・ブリュックナーのヴァイオリン、ヨーゼフ・ギールのピアノにて初演されたと書いているが、ヴァイオリンソナタ1番の知られている最初の公的演奏は1875年1月14日、ライプツィッヒの中央会館皇帝の間にての昼の新作発表音楽会である。演奏はアウグスト・ラープ(ゲバンントハウス管弦楽団のサブ・コンサートマスター)のヴァイオリン、フリードリッヒ・ルードヴィッヒ・シュターデ(ライプツィッヒの高名な音楽教師・オルガニスト)が行った。

 

 このとき好評な評論が出たが、演奏も評論も音楽出版社Forberg社が仕掛けたものだという。またForberg社からチェロソナタへの編曲への編曲要請があり、ゲバントハウス管弦楽団のチェリスト、カール・シュレーダーよって編曲(*)が成された。Forberg社からの手紙から判断するに1877年ごろの出版されたと判断される。このチェロのための別バージョンは、『チェロソナタ ハ長調 op.92』以降の作成(1875年)であり、実質的に2番と言ってもいいだろう。

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(*)2020/Sep/17:カール・シュレーダーの演奏としておりましたが、彼によるチェロ版への編曲が行われたと修正いたしました。なお、ラインベルガー自身にも緩徐楽章のチェロ編曲版も存在するとのことです。