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九重奏曲 op.139

via BSB Mus. ms.4609 c, [Partitur], [1884]
via BSB Mus. ms.4609 c, [Partitur], [1884]

(↑チェロの人、タブレット使ってますね)

Nonet in Es op.139

fl, ob, cl, fg, hr, vn, va, vc, cb

  1. Allegro
  2. Menuett
  3. Adagio molto
  4. Finale, Allegro

 ラインベルガーの作品は宗教曲とオルガン曲が最も演奏されるが、以外にも室内楽作品でもいくつか演奏頻度の高いものが3点存在する。晩年の『ホルンソナタ 変ホ長調 作品178』と『(ピアノ)六重奏曲 作品191b』。そして中期の『九重奏曲 Nonet 作品139』がある。実際「ラインベルガー? あ~演奏しましたよ」という器楽奏者は多い(特にホルン)。

 

 1楽器1名で演奏する形式の室内楽は、貴族など有力者のサロン音楽として発展した傾向にあり、古典派時代から前期ロマン派の時代に有名な曲が散見する。すぐに思い浮かぶのがシューベルトの『八重奏曲 (1824)』(cl, fg, hr, vn*2, va, vc, cb)だが、調べると必ずシュポア(Louis (Ludewig) Spohr 1784-1859)の『大九重奏曲 ヘ長調(1813)』(fl, ob, cl, fg, hr, vn, va, vc, cb)に行き着き、さらにさかのぼればベートーヴェンの『七重奏曲 op.20 (1799-80)』(cl, fg, hr, vn, va, vc, cb)が大本のようである。

 

 ラインベルガーはミュンヘン音楽院を終了した後、フランツ・ラッハナーに師事しみっちり室内楽の基礎を叩き込まれている。ラハナーはシューベルトの友人でもあったので、その影響下にあったことは想像に難くない。『九重奏曲 ノネット Nonet 作品139』はラインベルガーがミュンヘン音楽院にて作曲の教授に就任した1860年、ドレスデン音楽協会が主催した演奏会に招待されたことに端を発している。翌年の夏休みを丸まる使い、彼はまず『八重奏曲 Octet オクテット (JWV 132)』作曲し、ラッハナーがミュンヘン音楽アカデミーで開催された定期演奏会にこの新作を(おそらく)11月18日に披露した。その後『八重奏曲』は改定を加えられ、この際当初の第二楽章(Romanze)の代わりに新しいAdagioを作り、さらにAdagioがメヌエットの後の第三楽章として機能するように作品を並び替えた。『八重奏曲』は1863年にドレスデンで披露された。


 

 翌1884年夏から秋にかけて45歳の作曲家は22歳の頃の作品『八重奏曲』を『九重奏曲 Nonet 作品139』へと再編集を行った。新しくフルートパートを加えて管楽器を拡張し、2つの中間楽章のAdagioとMenuettを新しく書き、第一楽章と第四楽章でも幅広く改定を行った。

 

 ここでラインベルガーは『八重奏曲』が未出版だったこともあり、ライプツィッヒの出版社キストナーと連絡をとり『九重奏曲』を出版することした。フランチスカは12月17日の日記で作曲料が600マルクと記録している。翌1885年7月に出版社より『九重奏曲』の浄書が行われているが進捗が遅れていると連絡が入り、9月までには印刷が行われた。

 

 『九重奏曲』は「週刊音楽」誌 第21巻(1890年7月24日刊)の書評に「透明で明るい」...「最初から最後まで」と非常に好意的な書評が掲載された。公式な演奏の記録としては1892年6月30日、ミュンヘンの王立音楽院によってオデオンホール大ホールでの演奏までないが、すでに宮廷管弦楽団の指揮者ヨハン・クリストフ・ラウターバッハに楽譜が送られていたので、1885年10月にドレスデンで演奏されれいるはずである。1890年以前にヴュルツブルクで演奏が行われ、レーゲンスブルクでは非常に初期に演奏が行われたとの証言も散見する。