バイオグラフィー - 生涯

基本的にこの項はHarald Wanger 『Josef Gabriel Rheinberger Leben und Werk in Bilden』、Carus-Verlagを主軸にし、『Rheinberger Sämtliche Werke』各巻及び各種CDのライナーノートなどて補足してある。
 
ヨーゼフ・ガブリエル・ラインベルガー(Josef*1 Gabriel Rheinberger, 1839年3月17日 - 1901年11月25日)
[*1 英語圏で制作・販売されたCDではJosephと表記されることが多い。]
 
リヒテンシュタイン公国の首都ファドゥーツに生まれる。バイエルン王国のミュンヘンにて教育者、作曲家、指揮者、ピアニスト、オルガニスト、として活躍した。
 
父ヨハン・ペーター(その又父もヨハンである)はリヒテンシュタイン侯爵(公爵)の会計係で、音楽家の家系ではなかった。ただし、Bernhard Billeter(Amadeus Verlag 1990)よれば、父のペーターはそこそこフルートをたしなんでいたという。またWolfgang Stockmeier(cpo:999041-2)によれば母マリア・エリザベス(旧姓カリギエット。スイスのグリゾン州出身。後添いであった)から才能を受け継いだとしている。
 
Kroyerによればヨハン・ペーターは先妻マリア・ヒルチの間にヨゼファとダヴィットの2人の子供をもうけ、マリア・エリザベスとの間にヨハンナ、エリザベス、クリスティーナ・アマリア、マリア・ルドゥヴイカの4人の女の子とペーター、ヤコブ・アントン、そしてガブリエル・ヨーゼフの3人の男の子を授かり9人兄弟である。ただし『Rheinberger Leben und Werk Bildern』 による家族構成を見る限り、ヨゼファとマリア・ルドゥヴイカの名前は見当たらない。兄弟姉妹の順はダヴィット、ペーター、ヨハンナ(ハンニ)、アントン、エリザベス、ガブリエル・ヨーゼフ、アマリエ(マリ)の7人兄弟である(名前の表記にも相違が見受けれる)。当サイトにおいては基本的に『Rheinberger Leben und Werk Bildern』に従う。ヨーゼフ・ガブリエルは四男三女で6人目の子供であった(3人の兄弟が乳幼児期に無くなっているが、それは考慮していない)。
↑初めて出版した『4つのピアノ曲op.1』
↑初めて出版した『4つのピアノ曲op.1』

1839年3月17日に生まれたラインベルガーは、当初ガブリエルと名付けられ、二日後生家に隣接するスイスのクール管区による教区教会・聖フローリン教会にて洗礼を受けた。洗礼名はヨーゼフ(Joseph)だった。彼の出生証明書にはこう書かれている。

「ガブリエル・ヨゼフ・ラインベルガー 1839年3月17日ファドゥーツ生まれ。リヒテンシュタイン侯の年金運用官、ヨハン・ペーター・ラインベルガーとその妻エリザベス、旧姓カリギエット、との子供」と。

 

理由は定かではないが後年彼は、自らの意志で公式にファーストネームとミドルネームを逆転させて人生を送るようになる(その際JosephをJosefとした)。1854年、15歳になる直前の2月から3月にかけて三つの「前奏曲とフーガ(JWV 10, 13, 16)」を書いたが、その自筆原稿表紙には「Jos. Rheinbergerによる三つの前奏曲とフーガ、ルター教会音楽監督、ミュンヘン音楽院教授にして最も偉大な彼自身の教師J. G. Herzogに献呈」と書かれている。また1859年ペータースより初めて出版した『4つのピアノ曲op.1』の表紙も「Josef Rheinberger」となっている。


モーツアルトの塑像とともに。1853年・14才
モーツアルトの塑像とともに。1853年・14才
1844年秋(5才)
ラインベルガー家は助教師にしてオルガニストのセバスチャン・プーリー(1808-1889)をヨーゼフの姉たちヨハンナとアマリアのピアノ教師として招いた。彼はチロル地方のシランドロ(北イタリアの自治州にある町)出身で、ファドゥーツの隣にあるリヒテンシュタイン最大の都市シャーンに住んでいた。プーリーはほどなくして、二人の姉よりもヨーゼフの音楽的才能を見出し、ピアノおよび和声学のレッスンを開始する。プーリーとは生涯を通じて交流が図られるのであった。
 
1846年(7才)
ヨーゼフは、生家の隣にある聖フローリン教会でオルガニストとして務めを果たすようになる。まだ体の小さな彼のために足鍵盤には特殊な装置が取り付けられた。またこの頃、最初の作曲を行う。ピアノ曲やオルガン曲、そしてオルガン伴奏による3声のミサ曲であった。おそらくこのミサ曲を演奏しようと試みたところ、クール管区の司祭の不興を買ってしまい、楽譜をストーブで燃やされてしまったのであった。またこの頃の神童的逸話として、絶対音感によりバイオリンのA弦の調律が半音ずれているのを指摘したことがあった。

1848年(9才)
ファドゥーツで行われたコンサートにおいて感銘を受けたフェルトキルヒ(フォアアールベルク)出身の裁判所長シュランメルはヨーゼフに教育を受けさせるためにフェルトキルヒに送るよう、父親を説得した。またアマチュア弦楽四重奏団の一員が絶対音感を持っていることに気づき、やはりフェルトキルヒのシュムツァーの指導を受けることを父親に薦めている(この件は7才の時の逸話と混乱が見受けられる)。

1849年(10才)
ヨーゼフは隣国オーストリアはフォアアールベルク州のフェルトキルヒに移り、フィリップ・シュムツァー(1821-1898)に音楽の手ほどきを受けることになる。彼はチェリストで合唱指導者でもあり、作曲家でもあった。シュムツァーはピアノ、オルガン、和声の手ほどきをし、バッハ、モーツアルト、ベートーベンといった巨匠の作品を教材に作曲も教えたのであった。ヨーゼフは生涯を通じてモーツァルトを尊敬したが、それはこの頃に受けた教育に影響であり、また音楽家として生きていく道を選びだしたのもこの頃であった。シュムツァーの下で1年間住み込みであったが、聖フローリン教会でオルガニストとしての毎日曜日や祭日の務めも果たさねばならず、フェルトキルヒからファドゥーツまでの道のり(約15Km)を徒歩で往復するのであった。

1851年(12才)
フェルトキルヒでヨーゼフと知り合った、チロル出身の作曲家マテウス・ナギラー(1845-1874)はヨーゼフの父親にミュンヘン音楽院へ進学させるように勧めた。8月16日、ヨーゼフはフランツ・ハウザーが院長を務めていた、ミュンヘン音楽院(王立バイエルン音楽院、ハウザー音楽院とも)へ進むため、ミュンヘンへ移り住む。父ヨハン・ペーターはしばしば故郷のファドゥーツに帰ってくるよう促していたが、ヨーゼフはこのバイエルンの州都を終の棲家とするのであった。音楽院での専攻はピアノと音楽理論。前者は当初クリスティアン・ヴァナーに、翌年からユリウス・エミール・レオンハルトによるレッスンを受けた。後者の指導はユリウス・ヨーゼフ・マイアーであった。

1852年(13才)
院長であるフランツ・ハウザーの意志に反し、プロテスタント・福音派の聖マタイ教会にてヨハン・ゲオルク・ヘルツォークよりオルガン奏法の無料指導を受けるようになる。この年の年の瀬、ヘルツォーク推薦により聖ルートヴィヒ教会での無給の副オルガニストの務めを引き受ける。これまでヨーゼフはカトリック教会の伝統においての教会音楽に親しんでいたが、大バッハの4代下の直系の弟子であるヘルツォークと聖トーマス教会カントールで、バッハ教会創設者のモーリッツ・ハウプトマンの弟子であったユリウス・ヨーゼフ・マイアーから大バッハ伝来のオルガン奏法やプロテスタント教会音楽を彼から学んだ。
(この年の春、フランチスカ・イェーガーフーバー(21才)はルードゥヴィヒ・フォン・ホッフナースと結婚)
 
1853年(14才)
聖ルートヴィヒ教会でのオルガニストとしての職務のほか、聖ミヒャエル教会およびヘルツォーク-マックス-ブルクの教会において外部の手伝いとして演奏した。音楽院での学習状態の悪化について専門委員会による審査があり、ここで自身の実力を示す機会が与えられた。その際地学者、物理学者そして音楽学者であるカール・フランツ・エミール・フォン・シャフホイトゥルと知り合う。シャフホイトゥルはパトロンとしてだけではなく、メンターとしてヨーゼフを導き、生涯を通じた友情を形成することとなる。
この頃両親にあてた手紙に「私は他のどんな音楽よりも教会音楽を書きたいし、その才能があります」と書き、のちの教会音楽作曲家への片鱗を見せ始める。
 
1854(15才)
この頃よりヨーゼフをファーストネームとしだしている。7月優秀な成績の下に音楽院の課程を修了する。実家は以降の学費を出す余裕がなかったため、帰国することを望んだ。しかしユリウス・ヨーゼフ・マイアーがフランツ・ラハナー(1803-1890)のもとで学べるよう、学費を捻出してくれるスポンサーを集めてくれた。ヨーゼフ自身もピアノの個人レッスンで収入を得るようになる。ミュンヘン・オラトリオ協会の練習ピアニストとして小銭を稼ぐ(練習ピアニストとなるのは56年、57年と諸説あり情報が錯そうしているが、55年の『Abendlied』の演奏、56年には音楽家としての一定の評価を得ていることから54年が有力)。
16才の頃
16才の頃
1855年(16才)
誕生日の直前の3月9日、後の代表作の一つ『Abendlied(op.69/3)』を作曲。初演は同年11月30日にミュンヘン・オラトリオ協会によって行われた。以後この曲は出版されるまでの間に3度教会で歌われている(58年4月11日、63年3月23日、73年3月10日)。
この年公の場においての初めて作品の公開を行ったが、一定の評価は受けたが、芸術家として生きることの難しさを知る(ただしどの作品についてなのかについての言及は見当たらない)。
年末になると経済状態は最悪となる。
 
1856年(17才)
ミュンヘン・オラトリオ協会にてピアニスト、オルガニスト、のちに作曲家として地位を確立すことが出来るようになる。会員たちとの交友は個人レッスンの生徒をもたらすようになる。ヨーゼフ自身が語っている「協会の中で、そして協会とともに育った」と。
 
1857年(18才)
60グルデンの年俸でバイエルン王立宮廷オルガニストとして聖カイェタン教会オルガニストとなる。
この年ミュンヘン・オラトリオ協会にて後の妻フランチスカ(ファニー)・フォン・ホッフナースと知り合う。ただし彼女はその時点で人妻であった。12月にオラトリオ『イェフタの犠牲(Jephtas Opfer)JWV61』をラインベルガー自らのピアノ伴奏にて演奏する。タイトルロールを歌ったのはファニーであった。
 
1858年(19才)
op.69のNr.1に当たる「Morgenlied 朝の歌」や『Lockung 誘惑 作品25』の初稿を作曲する。音楽院でのピアノ教師枠に入ろうとしたが不採用となる。経済状態は芳しくなったが、ミュンヘンに残ることが将来より多くのものを得られそうに思われるという理由で、提示されていたレーゲンスブルクのトゥルン・ウント・タクシィス侯爵家の音楽教師としてのポストを諦める。
 
1859年(20才) 
ミュンヘン・オラトリオ協会の代理指揮者となる。エミール・レオンハルトが退職したことにより空きが出た音楽院のピアノ教師のポジションを受け継ぐ。ペータースより『四つのピアノ曲』が作品1として出版する。
1860年・21才
1860年・21才
1860年(21才)
作曲、対位法、和声学および音楽史の教授になる。昇給したことにより、経済的困窮状態を脱する。
 
1861年(22才)
Missa brevis in d, op.83の初稿を完成。出版(第2稿)は1874年(初演:1864/11/22)。この頃小さな集まりでピアノを披露する機会が増える。またラインベルガー自身は教師としての天分があったが、その職は作曲家として活動に専念することを阻害するものとして、負担を感じるようになる。
 
1862年(23才)
『7つの歌 作品3』を上梓。後の妻フランチスカ(ファニー)・フォン・ホッフナースに献呈。この頃のフランチスカたちとの交流は精神的に負担となる。3年ほど前から彼女のために20チクルス弱のメゾ・ソプラノ用歌曲の習作を作る。
 
1863年(24才)
この年の初めに、友人であるモーリッツ・フォン・シュヴィントの同タイトルの絵画シリーズに刺激され、歌劇『七羽のカラス』に取り組みだす。
10月1日、聖ミヒャエル教会のオルガニストに就任する(ただし1859年からとする資料もあり)。
 
1864(25才)
4月に『スターバト・マーテル ハ短調 作品16(初稿)』を完成。Carl von Perfall男爵 (1824-1907)の後を引き継ぎ、ミュンヘン・オラトリオ協会の指揮者に就任(~77年まで)。ラインベルガー曰く「私は協会とともに育った」。主な仕事は年三回コンサートを開催することであった。12月5日に初ステージを行う。演目はC.Ph.バッハのオラトリオ『砂漠のイスラエル Die Israeliten in der Wüste」』、メンデルスゾーン『讃歌 作品96 Hymn, op.96』、自作の『スターバト・マーテル 作品16 Stabat Mater, op.16』の世界初演。
歌劇『七羽のカラス』がミュンヘンおよびカールスルーエで却下される。序曲のみ11月の演奏会で好評を得る。このことによりウケるオペラ研究のため、12月より宮廷国立劇場のコレペティートルを67年までつとめる。
 
1865(26才)
3月12日ルートヴィヒ・フォン・ホッフナースが結核のために死去。
4月3日オラトリオ協会とともにモーツァルトのレクイエムを演奏し刺激を受ける。『レクイエム 変ロ短調 op.60』を書き始める。6月10日ミュンヘンにて『トリスタンとイゾルデ』の初演が行われる。
8月1日、改築のために音楽院が閉鎖される。
 
1866(27才)
3月23日自身のピアノにより『ピアノ三重奏曲 第1番ニ短調 作品34』を演奏(作曲は4年前の1862年3月)。
11月26日、ミュンヘンにて管弦楽のための交響的絵画『ヴァレンシュタイン 作品10 Wallenstein op.10』を自身のタクトにより初演。ヨハン2世・フォン・リヒテンシュタイン侯爵に献呈。大成功を収めたことにより作曲家としての地位を得る。
 
1867(28才)
2月28日ゲヴァントハウスのコンサート事務局の招きによりライプツィヒにて『ヴァレンシュタイン』を指揮。これによりフランツ・フォン・ホルシュタイン、カール・ライネッケおよびロベルト・フランツとの交友が生まれる。
4月24日フランチスカFranziska ("Fanny") von Hoffnaaß(1831-92)と結婚。8才年上であった。2人の間には子供はできなかった。自身がリヒテンシュタイン国籍で有り続け、伴侶もそうであるようにするための手続きを、兄ダーヴィットにしてもらう。
6月3日オラトリオ協会でケルビーニのレクイエム ハ短調を演奏する。『レクイエム 変ホ長調 作品84』を作曲( 6/28-7/2 ・初演1871/11/06)。作曲の動機はおそらく姉Elisabethの死(7月13日没)が考えられるが、確かではない。
秋に再建された王立ミュンヘン音楽院の作曲、オルガンの教授となる。宮廷国立劇場のコレペティートルを辞する。
この頃右手人差し指の疾患(皮膚潰瘍)が発症する。
 
1968(29才)
2月フランチスカと共にウィーンへ旅行し、9日ウィーン交響楽団が『ヴァレンシュタイン』を演奏行う。
『オルガンソナタ第1番 作品27』を作曲。恩師ヘルツォークに献呈。
宮廷国立歌劇場での経験を活かして、歌劇『七羽のカラス』の改訂を行う。
1869年・30才
1869年・30才

1869(30才)

4月末(28日?)にミュンヘン学生合唱協会の演奏でワーグナーの『使徒の愛餐』を聴き刺激を受ける。5月3日には『Das Tal des Espingoエスピンゴの谷 op.50』を完成。以降男声合唱曲を書き始める。同月23日歌劇『七羽のカラス Die sieben Raben op.20』の初演が行われ、大成功を収める。同月『 水の妖精 作品21』を完成(初演は1872年5月)。7月20日『ミサ・ブレヴィス ニ短調 作品83』の第2稿を完成(演奏:1873/01/19)。12月『レクイエム 変ロ短調 op.60』を丸々改訂して完成させる(11/03~12/05)

 

1870(31才)

春、不完全な歯の治療による敗血症にかかる。ヨハン・ネポムク・ヌスバウム教授によって執り行われた顎の手術により、一命を取り留めた。この手術の後、ラインベルガーの健康状態は蝕まれ、終生悩まされることになる。術後の6月、『ピアノ四重奏曲 変ホ長調 op.38』を完成。同曲はヌスバウム教授に献呈された。

7月15日普仏戦争勃発。書き直したレクイエムop. 60を12月12日オラトリオ協会により初演。「ドイツの戦争1870 - 1871年に倒れた英雄の記憶」として献呈する。

この年の終わりごろから、作曲や手紙を書くことができないくらい右手人差し指の潰瘍に苦しむようなる。

 

1871年(32才)

1月フランツ・ヴュルナー(1932-1902)とともに、”監督官”として、音楽院の運営を引き受ける。そして1月5日には学長代行的立場として、教師たちおよび学生たちに公式に紹介される。ファニーは「半分学長」という表現を使い、その立場は実質的には「代行」ではなく、ヴュルナーと同等であった。

右手の痛みは深刻で、書くことも音楽をすることもできない状態が続く。

郷里ファドゥーツに新たに建設された教区教会のために、手鍵盤3段のオルガンの計画を行い、エッチンゲンのシュタインマイアーに発注される。

 

1872年(33才)

2月4日、手に痛みを抱えながらも歌劇『塔守の娘 作品70』の作曲を完成。

この年の終わり頃、強い頭痛によって健康状態に障害が出る。

 

1873(34才)

4月17日兄アントン死去。4月23日に喜劇オペラ『塔守の娘』(ミュンヘン宮廷劇場)の初演があったために、告別式に参列することができなかった。

夏、モーツァルトの「ラウダーテ・ドミヌム(聖証者の荘厳晩課 KV 339より)」を編成し、ベルリンのジムロック社から出版する。ハンス・フォン・ビューローがイギリスで何度も取り上げ、好評を博す。

10月4日、ファドゥーツで母マリア・エリザベスが死去。彼はこの年の夏に母親を訪ねたばかりだった。

 

1874(35才)

1月25日、ブラームスが歌劇『七羽のカラス』の前奏曲をウィーンで演奏する。グランツでは、『塔守の娘』が好評のもとに上演される。

3月25日父ヨハン・ペーター死去。3月27日、完成したばかりの教区教会のオルガンで父親のためにレクイエムを演奏する。4月3日、彼は受け入れ検査および納品のコンサートを行い、枝の主日のミサにおいて聖歌の伴奏を行う。

夏、ヴィルトバート・クロイトで休暇中、フィレンツェ管弦楽協会よりオーケストラ作品の依頼を受ける。音楽学者アウグスト・ヴィルヘルム・アンブロスへの手紙では「私はフィレンツェの管弦楽協会から委嘱を受けたことを驚きながら、交響曲を書いています。ドイツの協会からは依頼を受けたことはなかったのに」と書いている。9月に夫婦でフィレンツェ、ヴェローナ、ミラノ、ボローニャ、ベニス、トロントを汽車で旅行する。

10月『ミサ・ブレヴィス ニ短調 作品83』の第2稿を出版。初版の楽譜表紙には四声の男声合唱と誤植される。

 

1875(36才)

年明け早々に『フィレンツェ交響曲 作品87』を作曲。清書の完成は2月23日。初演は3月28日にミュンヘンのオデオン・ホールで、作曲家自らの手により行われた。フィレンツェでの初演は同年5月6日にフィレンツェ管弦楽協会によって執り行われ、同協会に献呈された。

5月『オルガンソナタ 第3番 ト長調 作品88 "田園"』を完成。かつての師セバスチャン・プーリーに献呈。

 

1876年(37才)

この年のはじめ『ピアノ協奏曲 変イ長調 op. 94』が完成。7月29日にミュンヘンのオデオン・ホールにて弟子ルードヴィッヒ・リッター・フォン・ドゥニッキにより初演された。

ラインベルガーの作品、特に室内楽は、ヨーロッパの広い地域で知られるようになり、フランスでも徐々にこれらの作品に関心が持たれ始める。パリの音楽出版社J. マオーは、これらの出版権を獲得するために提案を送る。

 

1877(38才)

フランクフルトに新設されたホッホ音楽院の監督を依頼される。州内務省がラインベルガーのためにさまざまなポジションの調整を行ったが、ミュンヘンに残ることとなる。

7月26日Carl von Perfall男爵よりフランツ・ヴュルナー(Franz Wüllne)の後任として諸聖徒宮廷教会の音楽監督としての宮廷楽長のポストの打診を受け、8月4日申し出を受けることを決意する。

9月バイエルン王・ルートヴィッヒ2世(1845-86)によって宮廷楽長に任ぜられ、キャリアの頂点を極める。オラトリオ協会の指揮から退く。

 

1878(39才)

元旦バイエルン王より聖ミヒャエルの第1級功労勲章の騎士十字章を授与されたとの知らせを受け取る。

1月13日から18日にかけて『ミサ曲 変ホ長調 作品109 "Cantus Missae"』を作曲。選出されたばかりのローマ教皇レオ13世に献呈。

5月『オルガンソナタ 第5番 嬰へ長調 作品111』を完成。このあたりからオルガンソナタの量産体制に入る。

 

1879(40才)

年頭ケルビーニの英語版伝記を独訳する(Edward Bellasis著「Cherubini. Memorials illustrateive of his life」)。ファニーによると“英語は独特のエネルギーがある”とのこと。翻訳はほとんど終わっていたが、完成しなかった。

1880年・41才
1880年・41才
1880(41才)
4月『ミサ曲 ヘ長調 作品117』を完成。
7月ローマ教皇聖レオ13世より聖グレゴリーの騎士Knight of the Order of St. Gregoryを叙勲。(この献呈・叙勲は度重なる総ドイツセシリア協会からの嫌がらせを、権威により黙らせることを期待したからではないかとの説もある)。
12月『ピアノ・トリオ 第3番 へロ長調 作品121』を完成
 
1881(42才)
右手の炎症が再発。ほとんど字が書けなくなり、清書をファニーが行うようになる。5月ごろから規模の小さな曲しか書けなくなる。
9月6日、妻ファニーのテキストを元にオラトリオ『クリストフォールス 作品120』を完成(初演25/Mar/1882)。ラインベルガー最大の大ヒット曲となる。存命中欧米で150回近くの演奏がなされた([Leben und Werk]によると完成は1880年1月15日となっている)。
11月29日女声三部合唱とオルガンのための『ミサ曲 イ長調 作品126』を完成。だが12月24日の作曲者自身のタクトによる初演時には「主の降誕 in nativitate Domini」と副題が付与され、フルート、弦楽五重奏、オルガン伴奏にて行われた。
 
1882(43才)
3月25日ライプツィヒにてオラトリオ『クリストフォールス 作品120』がリヒャルト・ホーフマンの指揮、ライプツィヒ声楽アカデミーによって初演される。
6月に歌曲『ウェストファーレンから 作品130』を完成。指の疾患がひどく、この曲の清書はファニーがを行った。
バット・クロイトでの休暇中『ミサ曲 ト長調 作品151』を作曲。
10月7から20日にかけて『オルガンソナタ 第8番 ホ短調 作品132』を完成。この曲の最終楽章「パッサカリア」をブラームスは研究し第4交響曲のフィナーレに影響を与えたとする説もある。またこの楽章は相当の自信作だったらしく、ピアノ連弾化・ピアノ独奏化・オーケストラレーションをそれぞれ施している。
 
1883年(44才)
5月、本来は当時使用されなくなっていたマニュアル鍵盤2段のチェンバロのために書かれた大バッハの「ゴルトベルク変奏曲」を2台ピアノ版へと編曲。のちにマックス・レーガーがさらに編曲を行う。
10月21日「作曲家ラインベルガーを表彰する夜会」に出席するためケルンに向かう。この夜会では、ラインベルガーの作品のみが演奏された。2日後、同地で”250人の歌い手とそれに相応する多くのオーケストラ”(ファニー・ラインベルガー)よる『クリストフォールス』を指揮する
 
1884(45才)
何年も続いている手の痛みが再びひどくなり、執筆しづらくなる。
6月27日『オルガン協奏曲 第1番 作品137』を執筆中、痛みが和らいだ際にはスターバト・マーテルを作曲すること誓いながらは完成させる。指の痛みは聖母マリアの受けた悲しみにも値しないからである。
9月29日『スターバト・マーテル ト短調 作品138』を完成。この作品は作曲者自身個人的事情から作曲された非常に稀有な例である。
11月6日『六重奏曲 作品139』を完成
 
1885(46才)
このころラインベルガーの作品はヨーロッパは言うに及ばず、アメリカでも大いに演奏され、絶頂期と言ってよい時期になる。唯一、レーゲンスブルクの総ドイツセシリア協会だけが「ラインベルガーのミサ曲には欠陥があり典礼に適さない」と表明する。
3月10日、ブルックナーの交響曲第7番の演奏に参加する。
5月『オルガンンソナタ 第9番 変ロ短調 作品142』を完成。『オルガン協奏曲 第1番』をフランスにて初演してくれた、アレクサンドル・ギルマンに献呈。
 
1886年(47才)
ベルリン音楽家協会によるピアノ四重奏曲のコンペティションに審査員として関わる。受賞者は若いリヒャルト・シュトラウスであった。
5月、ファニーが書いたファドゥーツでの休暇の印象を「ラインの言い伝え」の詩を『モントフォルト 作品145』をして完成させる。
 
1887年(48才)
1月ヘルマン・レヴィの代理で、リヒャルト・シュトラウスが歌劇『塔守の娘』の指揮を行う。
夏ころファニーの体調が悪化しだす。夫への配慮で伏せていた。
ベルリン王立芸術アカデミーの名誉賞を受賞する。
9月から10月にかけて『ヴァイオリンとオルガンのための6つの作品 op.150』を完成(各曲の完成日はファニーの記録と少しずれがある)。
 
1888(49才)
3月17日(誕生日)『ヴァイオリンとオルガンのための六つの小品 作品150』から3曲(エレジー, 序曲, 夕べの歌)を、自らのオルガンと献呈者のBenno Walterとともに初演。初演後「エレジー」・「 夕べの歌」をチェロ用に編曲し、Forberg社に送っている。
夏の休暇中8月下旬から9月上旬にかけてシュタンベルクにて『ミサ曲 変ホ長調 作品155』を完成。フランツ・クセバー・ハーベルル(Franz Xaver Haberl 1840-1910)からテキストの欠落を指摘される。修正を施すが最終的には全てを治せないまま出版となる。
12月2日、マクシミリアン勲章芸術および科学の大騎士十字章が授与される。
 
1889(50才)
3月17日、50歳の誕生日にラインベルガーに世界中から数多くの祝福が届く。中でも際立つのは86才のシャーフホイトゥル教授からものである。
4月4日、シランドロ在住のラインベルガーの最初の師・セバスチャン・プーリーが死去。81才。かつての教え子は師の晩年、経済的援助を与えていた。
6月『ミサ曲 ヘ短調 作品159』を完成。フランツ・クセバー・ハーベルルに献呈する。
11月2日、長兄ダヴィッドが亡くなる。
1890年・51才
1890年・51才
1890(51才)
2月25日かつてのメンター、シャーフホイトゥル教授が亡くなる。
春頃ラインベルガーの健康状態は非常に悪く、宮廷楽団の職務を代理にやらせなければならないほどだった。
6月フランチスカのテキストによる、クリスマス・カンタータ『ベツヘレムの星 作品164』が完成。
総ドイツセシリア協会の機関誌にて『ミサ曲 ヘ短調 作品159』を否定する評論がなされる。匿名による8件の記事が掲載された。スイスとオーストリアのセシリア協会誌には、ラインベルガーの教会音楽を擁護する記事が載った。
 
1891(52才)
5月31日『ミサ曲 ハ長調 作品169』を完成。妻フランチスカはリューマチ性の疾患により、床に着くようになる。彼女の手紙の中には、彼女自身、全快することなど信じていないという言及が積み重ねられている。またこの頃より精神病の症状も現れる。
 
1892(53才)
ラインベルガーも審査員を務めていた作曲コンペティションを介して、ベルリン在住のマックス・ブルッフと文通を始める。
5月『ミサ曲 ロ長調 作品172』を完成。
イースター以降、フランチスカの病状が激変する。
12月24日『ベツヘレムの星』がドレスデン聖十字架教会にて初演されるが、妻の病気のこともあり、出席しなかった。31日フランチスカ死去。
 
1893(54才)
フランチスカの死後は、孤独感が募っていく。
4月2日(復活祭主日)ヨハン・グスタフ・エドゥアルト・シュテーレの指揮により『ミサ曲 ハ長調 作品169』がザンクト・ガレン大聖堂において初演される。
7月『待臨節のためのモテット 作品176』を完成。ラインベルガーはあまりラテン語に精通していなかった模様(単語や音節の省略。間違った音節部にアクセントを置くなど)。この曲は作者の死後、出版社ロイッケルトの求めに応じてレンナーが、5番と8番の改訂を行なう。
10月19日、男兄弟最後の次兄ペーターがファドゥーツで死去する。
 
1894(55才)
健康上の理由により諸聖徒宮廷教会の音楽監督としての宮廷楽長の職を辞する(セシリアンの粗捜しに嫌気がさしたとも)。
9月13日、バーデン・バーデンにおいて『オルガン協奏曲 第2番 ト短調 作品177』がC. L. ウェルナーにソロによっての世界初演される。ミュンヘンにての初演は12月14日にオデオン・ホールにてリヒャルト・シュトラウスの指揮・オルガン、ヨーゼフ・ゼヘトにより音楽院の第3定期演奏会にて執り行われた。
『オルガンソナタ 第17番 ロ長調 "幻想" 作品181』を完成。第3番ソナタ以来の副題付き曲となる。
 
1895(56才)
1月1日 、バイエルン王室より大十字勲章を授けられ一代貴族に列せられる
 
1896(57才)
ファニーの遺言で、ミュンヘンの聖ミハエル教会に寄贈された大オルガンが完成する(第二次世界大戦において空襲で破壊される)。
ヴィルトバート・クロイトでの休暇中「リヒテンシュタイン方言辞典」を執筆する。
12月12日日本国内にて瀧廉太郎により、『三つの性格的小品 作品7』の1「バラード」が演奏される。
「第八ピヤノ独弾 ラインベルゲル氏作バラードは将来多望の公評ある瀧氏の演奏なり全体ピヤノ独奏は未だ邦人多数の好尚に適はざるが如く従って奏者の骨の折るゝ割合に聴者に喜ばれざるが常なれど此演奏は然らずして彼れ少壮可憐の奏者が静に演壇に上りて弾奏を始めしより終りまで能く聴者の耳を傾けしめたる技?実に天晴末頼もしを言ふの外なし奇語す氏は声楽に於ても亦器楽に於ても芸術家たるの資を具備せる者の如し望むらくは自重自愛益々其技を切磋し其芸を琢磨せよ苟にも小成に安じ小長に慢るは特に芸術界の大禁物たると忘るなくんば幸いなり。」雑誌「おむ賀久(音楽)」(第74号、明治30年11月)
http://albert31st.blog104.fc2.com/?mode=m&no=363 より
 
1897(58才)
4月12日『ミサ曲 ト短調 作品 187』を完成。4月3日のブラームスの訃報に接し同曲を献呈する。
 
1898(59才)
4月6日『ミサ曲 ヘ長調 作品190』を完成。
7月7日自身の"対位法の集大成"として『フーガの形式の六つのテーマによる大オーケストラのための大学序曲 作品195』を完成させる。
 
1899(60才)
1月Forberg社の委嘱により、2月『ミサ曲 ホ長調 作品192』を完成。
3月17日ミュンヘン大学哲学学部から名誉哲学博士号を60才の誕生日に送られる。前年から準備していた、「大学序曲」作品195を返礼として贈る。
1900年・61才
1900年・61才
1900(61才)
1月マックス・レーガーがラインベルガーと連絡を取り、彼の作曲した作品群の校訂を依頼する。彼の両親の意向でバイエルンでの教師資格を取得するため、ラインベルガーに師事したかったのだが、芸術家として生きていくことの難しさを諭される。9月レーガーは『B-A-C-Hの主題による幻想曲とフーガ 作品46』の献呈を行う。
3月『レクイエム ニ短調 作品194』を完成させる。
ヴィルトバート・クロイトでの休暇中にベルリン在住の若い女性ヘンリエッテ・ヘッカーと知り合い、文通が始まる。
 
1901(62才)
6月に『オルガンソナタ 第20番 ヘ長調 "Zur Friedensfeier 平和の祭典で" 作品196』を作曲。最後の完成作品となる。
10月健康上の理由により、音楽院の職を辞する。
約6週間後の11月25日15時30分、ミュンヘンのフュルステン通り22番にある自宅にて、姪のオルガに看取られながら息を引き取った。
11月28日ミュンヘンの南共同墓地にて、愛する妻ファニーの隣に埋葬された。葬儀の際には『4つの思い出の曲 作品24』の1番、『Staub bei Staube』が歌われた。12月11日にミュンヘン・オデオンホールでの追悼演奏会ではオペラ『7羽のカラス 作品20』前奏曲、『オルガン協奏曲2番 ト短調 作品177』などが演奏された。
 
1902年
4月27日、オーストリア・ブレゲンツにてブレゲンツ・リーダークランツと軍楽隊による追悼コンサートが開かれる。プログラムとして『Elegiac March op.167b 哀悼行進曲 作品167b』と『ワレンシュタイン交響曲 op.10』から「Wallensteins Lager ワレンシュタインの陣営」、ほか宗教曲・世俗曲が歌われた。
1949年
ラインベルガー夫妻の墓は第2次世界大戦でのミュンヘン大空襲のため破壊されていた。同時にファニーの遺言で寄贈された大オルガンの収まる聖ミハエル教会も失われた。8月7日に夫妻の遺骨は故郷のファドゥーツに移設され市内の墓地に埋葬された。