ピアノ考


Barcarole/ Drei Charakterstücke op.7-2

 ラインベルガーが12歳でミュンヘン音楽院に進んだ時の専攻はピアノと音楽理論であった。学業が思わしくないと一時期問題になりかけたが、最終的には優秀な成績で卒業する。その後は新進のピアニストと注目され、かつピアノの個人教授で糊口をしのいでいた時期があった。1859年に彼が初めて出版した作品が『Vier Klavierstücke op.1 4つのピアノ作品 作品1』だったのは当然かもしれない。生涯にわたってピアノ作品(40曲)およびピアノが絡んだ室内楽(13曲)を発表していたが(声楽を含めるといったい何曲になるのか)、一部の4手連弾(また2台ピアノ)作品を除いて、今日ではまず顧みられない。


 彼は28歳ごろ、ちょうどフランチスカ(ファニー)・フォン・ホッフナースと結婚した前後(1867年前後)に右手の人差し指に潰瘍を発症し、その後指のただれ除去による不完全な手術が状態を悪化させた。そして鍵盤に触ることに支障をきたすようになる。1878年宮廷楽長に選出されたことにもあり、ミュンヘン・聖ミハエル教会オルガニストの職も辞し、鍵盤奏者としての道を完全に断念する。ラインベルガーは1871年「3月、右手の人差し指と中指の間に、過剰なピアノの練習に端を発したと考えられる腫瘍が破裂」してまい鍵盤演奏が出来なくなってしまった。1870年春先の歯の治療に端を発した敗血症の影響だという。彼は1878年に刊行した『Toccata in e op.104 トッカータ ホ短調 作品104』(作曲は前年。ピアノ曲としてはこれで33曲目)で、いったんピアノ作品の発表に区切りをつけることとなる。

 

 この1878年以後数年は指の激痛がピークに達し、鍵盤に触るどころか執筆もままならい状態であった。けれどもモーツアルトを尊敬していたラインベルガーは、創作態度としてけっして個人的事情を作品に反映しない人であった。1878年も精力的に作品を書き続け(『変ホ長調のミサ曲 作品109』(1月)、『シラーのデメトリウスのための序曲 作品110』(6月)、『オルガンソナタ5番 嬰ヘ長調 作品111』(5月)、『ピアノ三重奏曲 2番 作品112』(10月)、、『左手のためのピアノ練習曲 作品113』(11月。前半半分の3曲))「1000回の中断を伴って」年末に完成したと告白している『ピアノ五重奏曲 作品114』(12月)と作曲活動をやめなかった。そしてその直筆清書には筆致の乱れは微塵も見せない。

 

Pianofortestudien für die linke Hand allein op.113 左手のためのピアノ練習曲 作品113
Pianofortestudien für die linke Hand allein op.113 左手のためのピアノ練習曲 作品113

 だが上に書いたとおり、ピアノ曲の刊行は激減する。晩年の文通相手、ヘンリエッテ・ヘッカーに「数年前から突き刺さるような痛みのため、私はピアノに触れませんでした。」と明かしている。そして続けて「そのとき、私は左手用の作品を書いて演奏しました」と『Pianofortestudien für die linke Hand allein op.113 左手のためのピアノ練習曲 作品113』を作ったことを告白している。彼は自身鍵盤奏者としての演奏活動の終焉に奮起しこの曲を書いている。

 

 1883年までにピアノ曲を3曲上梓。1884年右手の疾患は寛解したが、ピアノ音楽の作曲はその後ほとんど再開しなかった。この時期は『オルガン協奏曲1番op.137』を書き上げその後の治療で症状が治まり、『スターバート・マーテルop.138』に取り掛かるころである。彼の興味はオルガンと宗教曲に集中しており、ピアノ曲・交響曲・オペラといった主流作品への関心が失われていた時期に当たる。

 

 『2台のピアノのためのデュオ 作品15』のようないくつかの作品が一時手的に人気を博していたが、円熟期にピアノ曲という人気ジャンルに取り組めなかったことが、ピアノ作曲家として名を馳せなかった事の理由なのかもしれない。彼の妻を心配させないための配慮かもしれない。また鍵盤楽器としてはピアノよりもむしろオルガンを好んだとい事実もある。彼が再度ピアノ曲を刊行するには10年の歳月が必要だった。それは妻フランチスカの没後2年たってからである(1894年の『 Zwölf Charakterstücke in kanonischer Form op.180 カノン形式による12曲の性格的作品 作品180』)。彼の人生最後の年にピアノを伴った『ホルンソナタ 変ホ長調 作品178』、『金角湾から 作品182』、そして最後の『ピアノトリオ ヘ長調 作品191』を書いたのは妻の目が無かったからではないかとも言われる。

 

 彼はほとんどの作品をピアノ連弾用にリダクションを行い刊行した。それは自作品の普及の意味もあっただろう。まだ録音の無い時代である。大規模な作品でもピアノ一台で演奏可能にすれば広まる可能性がある。だがラインベルガー夫妻にとってはもう一つの意味合いがあった。

 

 ラインベルガーにとって、ピアノは夫婦円満の道具でもあった。娯楽の少ない時代でもある。夫婦は夕暮れのひとときをピアノ連弾で過ごしていた。二人が初めて出会った6月10日は毎年4手用に編曲したハッセの『テ・デウム』を弾いて祝ったという。妻フランチスカがもっとも喜んだのは夫ヨーゼフの作品を二人で演奏することだった。連弾曲『タランテラ op.13』は夫婦で並んで仲良く弾くために作られた(1867年7月)。また劇伴『Der wundertätige Magus 奇跡の魔術師 op.30』はフランチスカのお気に入りで、連弾曲への編曲を彼女自らがねだったほどである。よほど二人で弾きたかったのだろう。

左)Barcarole 舟歌 op.7/2 オリジナルバージョン

右)Barcarole 舟歌 op.7/2 四手連弾バージョン


Bootlied 四手バージョン表紙。少しわかりづらいが右下にファニーの書き込みがあるvia BSB Mus.ms. 4690-3  [23.8.1866]
Bootlied 四手バージョン表紙。少しわかりづらいが右下にファニーの書き込みがあるvia BSB Mus.ms. 4690-3 [23.8.1866]

 紹介している動画『Drei Charakterstücke op.7 三つの性格的作品 作品7』の2番「Barcarole 舟歌」である。この曲集は1867年に出版され、ライプツィヒのオペラ作曲家フランツ・フォン・ホルシュタイン (1826-1878)に献呈された。ラインベルガーはめったに旅行をしなかったが、1867年2月にライプツィヒに渡り、ワレンシュタイン交響曲の演奏した。この際ホルシュタインに知己を得、生涯の友情を築いている。

 

 「Barcarole 舟歌」には4手連弾用のバージョンが存在する。ラインベルガー夫妻がまだ結婚式を挙げる前年、1866年テーガン湖に旅し、元来ピアノ独奏の「Barcarole 舟歌」を連弾用に作り直し2人で弾いた。ほぼ同時期に作られた連弾曲「Bootleid 舟歌」の表紙にフランチスカは「テーガン湖の記念に / 1866年8月23日」と書いている。この曲は作品11の2番として2手用に手直しされ、やはり1867年に出版された。妻フランチスカはラインベルガーがもっとも愛した楽器はオルガンだと述べているが、夫婦で愛したのはピアノであり、連弾作品であった。