忘れられた作曲家


ラインベルガー。1880年頃
ラインベルガー。1880年頃

 歴史に名を刻む音楽家は一握りです、ラインベルガーの先達や同世代のロマン派時代でも数多の作曲家が忘れられました。同じように彼自身もその中の1人です。生前のラインベルガーは、大変人気のある作曲家でした。特に1866-68年(27-29歳)の管弦楽のための交響的絵画 『ヴァレンシュタイン』op.10や1869年(30歳)オペラ『7羽のカラス』op.20の成功を機に、一流の作曲家とみなされていました。ピアノ曲、合唱曲、歌曲、オルガン曲、室内楽など多くの楽譜出版社が彼の作品をこぞって求めていました。彼自身は演奏旅行を行いませんでしたが、彼の友人たちが - 特にハンス・フォン・ビューロー - ヨーロッパ中で。そして多くの弟子たちがアメリカで演奏してくれました。

 なのですが、没後彼の作品は顧みられなくなります、特に1920年以降、1970年代のリヒテンシュタイン公国の肝いりでオルガン曲集の出版がなされて、やっと顧みられるまでの50年間を研究者は「失われた50年」と表現します。そしてオルガニストで曲集の編集も行い、全集のオルガンパートの校訂者マーティン・ウェイヤーは忘れられたとは言わず「打ち捨てられた dismissed」や、他の研究家ともに「無視された neglect」という表現を使っています。時代に合わずに音楽史の中に消えていったのではないことを示唆しています。20世紀になり彼の作品はわずかに宗教曲以外はドイツ語圏では忘れ去られ、今現代においてもう一つの支柱、オルガン曲も英語圏以外では顧みられなくなります。極端な話をすれば「時代の要求について行けず飽きられた」と言えるのでしょうが、なぜ彼が飽きられたのか、忘れられたのかを少しだけ考察してみたいと思います。


ラインベルガーはなぜ忘れられたか

考察 1

 ラインベルガーが忘れられる要因がいくつか存在すると思われます。まず、彼はワグネリアンや新ドイツ楽派とは一線を画し、ブラームス派の作曲家であったことがあげられます。彼の作品にある程度接してみれば、その作風はどちらかと言えばバロック時代や古典派の作品に近い事が解ります。けっして個人の感情をことさらに表現せず、和音もリズムも当時の最先端を志向しませんでした。「自然である事が最も大事である」とし、リストやワーグナーの音楽を嫌いました。新しい音楽を作り出すことはありません。ここに時代についていけない感があります。すでに1880年代では弟子筋から時代遅れの作風とみなされ、晩年は多くの弟子が彼と袂を分かちました。

考察 2

 次に彼はどっぷりドイツ語圏真っ只中の作曲家であったということが考えられます。ラインベルガーの時代は広い意味での「国民楽派」の作曲家の時代でした。イタリア、ドイツ、フランスの音楽大国以外でロシア、東欧、北欧の各国を代表する作曲家が世に出ました。チャイコフスキーはちょっと違うと思いますが、ロシア五人組、スメタナ(チェコ)、ドヴォルザーク(チェコ)、グリーグ(ノルウェー)、少し下の世代のニールセン(デンマーク)、ヤナーチェク(チェコ)、シベリウス(フィンランド)。国民楽派と言えなくてもエルガー(イギリス)、ヴォーン・ウィリアムズ(イギリス)と各国を代表する音楽家たちは自国の音楽をある程度アイデンティティとして作品を残し、歴史に爪痕を残しました。ラインベルガーはリヒテンシュタインという小さな国出身でしたが、祖国の音楽は残せませんでした。リヒテンシュタインの国籍を捨てず、常に帰郷し方言の本まで執筆までしてます。アイデンティティとしてのリヒテンシュタインは決して捨てませんでしたが、その小さな国はやはりドイツという大きな枠組みからは決してはみ出すことのない世界だったのでしょう。数多のドイツ系作曲家の中で埋もれてしまったと推察されます。

考察 3

 ラインベルガー自身に問題があるのですが、彼が宗教曲を作っていた時代、南ドイツのカトリック音楽界で「セシリア運動」が主流となります。グレゴリア聖歌やパレストリーナのような作品を理想とし、ア・カペラで簡素・質素を旨とし、はでな器楽伴奏やソリストを起用した宗教曲を良しとしない思想が蔓延します。ラインベルガーはこの思想に共鳴してア・ペラ作品やオルガン伴奏の宗教曲を多数発表していました。が、彼自身がラテン語に精通しておらず多くの間違いがあるため、セシリア主義者から「典礼にそぐわない」と常に攻撃の対象となっていました。「セシリア運動」はあまり語られませんが、その影響力はヨーロッパ中に蔓延しブルックナー以後、オーケストラ伴奏のミサ曲が激減する要因になったと考えます。次に考察する古楽復興にも関与していると思います。

考察 4

 宗教曲の問題が出ましたが、ラインベルガーは初期の頃こそ交響曲やオペラで成功しますが、性格だったのでしょう、歌曲やピアノ曲・室内楽もありましたが次第にその作品は宗教曲とオルガン曲が主軸となります。妻フランチスカ(ファニー)は「オルガンはやはり彼の愛する楽器でした」と書いているそうです。でも、ベートーベンを頂点として、交響曲や協奏曲がコンサート会場の人気演目になっていきます。宗教曲やオルガン曲はクラシック音楽の傍流にしか過ぎないのです。もし彼がもう4~5曲ぐらい交響曲を、オルガン協奏曲ではなく、もう1曲ピアノ協奏曲とヴァイオリン協奏曲書いていたら、世間の評価は変わっていたでしょう。ただ病弱なラインベルガーには巨大なオーケストラ曲を書き上げる体力はなかったのかもしれませんが。

考察 5

 もう一つ大きなファクターがあると考えます。彼の作品はマーティン・ウェイヤーが語るように、「無視された」のだと思います。1930年頃から、「organ movement オルガン運動」という流れが勃興します。古楽復興の流れの中で、バロック時代のオルガン作品の再興を目指す理念です。この「オルガン運動」をになった人たちによる「ロマン派時代の憎悪」はすさまじかったらしく、大バッハおよびその前の世代のバロック時代に非ずんば人にあらず的に、19世紀ロマン派の作品を毛嫌いしていたようです。ラインベルガーの下の世代のレーガーですら、彼ら(例えばヴァルヒャ)は拒否しました。レーガーは後述のようにまだましだったそうですが。

 ここから邪推が入りますが、このオルガン運動を支えたのは大バッハのメッカともいえるライプツィッヒのトマス教会オルガニストなど、ルター派プロテスタント系オルガニストたちだと思います。彼らは大バッハを神格化し、大バッハにたどる道以外は良しとしませんでした。大バッハ以降のオルガン音楽は衰退しますが、大バッハを再発見したメンデルスゾーンがいました。メンデルスゾーンはオルガン音楽の中興の祖ともなります。そして彼はプロテスタントでした。近年メンデルスゾーンのオルガン音楽が大量に発見され研究がなされているようですが、オルガン運動の時代に世に出ていた彼のオルガン作品は、ラインベルガーに比すれば多くはありません。ですが、メンデルスゾーンは大バッハ再発見の功労者でありプロテスタントでもありましたから、その作品は重要視されました。

 ブラームスは初期の作品と最晩年にオルガン曲を残しました。数はとても少ないです。彼は大作曲家であるとともにやはりプロテスタントでした。そして晩年の作品はコラール前奏曲です。重用される要素が満載です。例外はリストだけでしょう。彼はカトリックの司祭にもなりましたが、膨大なオルガン作品の作曲・編曲を行うとともにワーグナーと並び立つほどの大物です。その作品を無視することは、20世紀のオルガン運動を支えた人たちもできなかったようです。ラインベルガーはカトリックでした。彼自身は大バッハから数えて5代目直系であり、カトリックに関わらず、プロテスタントの様式にも非常に精通していました。ですが、その宗派の違いもラインベルガー拒否の要素でしょう。中には1931年のフリードリッヒ・ブルーメの言及のように「プロテスタント」として認識しようとする向きもあります。

Monologe Zwölf Stücke für die Orgel/Nr.6 - 3小節目のペダル部分にひっそりと「canto fermo」と書かれているが、これが”O Haupt voll Blut und Wundenおお、血と涙にまみれた御頭よ"(または”Wenn ich einmal soll scheiden血潮したたる”)からの引用
Monologe Zwölf Stücke für die Orgel/Nr.6 - 3小節目のペダル部分にひっそりと「canto fermo」と書かれているが、これが”O Haupt voll Blut und Wundenおお、血と涙にまみれた御頭よ"(または”Wenn ich einmal soll scheiden血潮したたる”)からの引用

 そしてラインベルガーのオルガン作品はどういうわけかコラールや讃美歌・讃歌から引用が極端に少ないのです。オルガンソナタの3番、4番、19番。そして小曲集『Monologe 独白』op.162に含まれる1曲と、合計4曲しか存在しません(正確には作品番号外でもう1曲、左の旋律が引用された作品があります。他大バッハ(BACH)を含んだ人名をモチーフにしたものが3曲)。しかもルター派コラールはop.162のみ。これは大バッハを神様とみなす人たちにとってはゆゆしき問題はないでしょうか? プロテスタントの妻をめとってカトリックを破門され、ルター派プロテスタントのコラールをしこたま引用したレーガーがまだましだったわけがここにも見え隠れしてます。リストは『バッハのカンタータ「泣き、嘆き、悲しみ、おののき」とロ短調ミサ曲の「十字架につけられ」の通奏低音による変奏曲』などという大曲を作りましたから、やはり彼らの覚えがいいわけです(ただしこの曲のようにバッソ・オステナートな作品の継承者は現れませんでした。逆にラインベルガーの"Passacaglia パッサカリア"はレーガー、カルク=エーレルトほかの継承者が発生しているのですが)。実際は大バッハを敬愛していたラインベルガーですが、【大バッハ真理教】ともいえるプロテスタント系古楽派のオルガニストたちにとっては、引用がないという事は、大バッハをないがしろにしていると言えるでしょうから我慢ならないものでしょう。ラインベルガーのオルガン作品はコンサート向けのものばかりですが、もし彼がオルガン曲にルター派プロテスタントなどからコラールの引用を大量に行い、典礼向きの作品を残していたら後世の評価は全く違っていたでしょう。

 また、第1次世界大戦(及び第2次世界大戦)にてドイツの都市部は完全に壊滅しました。巨大なオルガンを有していた大教会(コンサートホールも)は灰燼に帰しました。ライプツィッヒなど東ドイツに位置した教会は近年まで、復興されていません。これはラインベルガーを含んだロマン派の時代に作られたオルガン作品の演奏を困難にします。地方の教会の基本的機能を有したオルガンが残っているだけです。ラインベルガーのオルガン作品は非常にバロック期を意識したつくりになっているため、具体的な音色の指定(ストップ)や漸進的な強弱の推移指定(クレッシェンド、デクレッシェンド)はありません(ストップの増減による強弱の変化)。しかしながら、機能の少ないオルガンにて彼の作品を演奏するにはかなりの力量を必要とします。つまり満足に演奏できる楽器があまりなかったのです。

 すこしオルガン運動からの「無視 neglect」に関する要素をまとめましょう。ラインベルガーは20世紀において

a. バロック指向であったにもかかわらず、ロマン派時代の作曲家のひとくくりととらえられてた
b. コンサート向けの作品ばかり、コラールからの引用も少なく、かつカトリックだった
c. 20世紀初頭、ラインベルガー作品に耐えうるオルガンが少なかった

 このような要素が「無視 neglect」につながったのだと思います。

 またオルガン運動家以外からも、古楽関係者に嫌われる要因があったように見受けられます。ラインベルガーにはいくつかの先達の大作曲家たちの作品をアレンジしたものがあります。特に多いのは最も尊敬していたモーツアルトですが、バロック期の大バッハなども含まれます。特に名高いのは大バッハの『ゴルトベルク協奏曲』をアレンジした『2台のピアノのためのゴルトベルク変奏曲 (BWV988, WoO 3)』を上梓しました。ラインベルガー存命の時代、2段鍵盤のチェンバロは廃れてしまい、この曲を弾くことは困難をようしました。彼はこのように優れた名曲かつ難曲が廃れていくのを憂いて、後世に残すべく編曲を行いました(この編曲を余りにも偏重したレーガーは、そのアレンジに飽き足らずさらに改変を加えて上梓するのでした)。これが20世紀に楽器が再現されると仇となります。ロマン派時代の作曲家が勝手に作り替えたと。「古楽原理主義者」とでも呼ぶべき人たちからすれば、とてつもない冒涜行為に映ったようです。

結論

 大きくまとめましょう。なぜラインベルガーは忘れられたか。

  1. 非ワグネリアンであり、時代遅れな作風であった
  2. 国民楽派ではなかった
  3. その宗教曲に問題があった
  4. オーケストラ作曲家ではなかった
  5. 20世紀の「オルガン運動」から無視された

このような複数の要因が重なって、忘れ去られていったのだと思います。

 今日本でラインベルガーの作品は、宗教音楽を中心として演奏されています。できたらピアノ曲や室内楽にも目を向けてもらいたいと思いますが、もう一つの柱オルガン作品もそれほど人気があるとは思えません。一部の例外的なオルガンソナタとアンサンブルを除いて、ほとんど顧みられないようです。一部のオルガニストは、もう馬鹿にしちゃって歯牙にもかけないとの事です。20世紀初頭英語圏でラインベルガーのオルガン作品を出版し、細々と支えたハーヴェイ・グレイスは「大バッハ以降オルガン音楽の質と量においてもっとも貢献したのはラインベルガーである」述べています。大バッハやバロック期の音楽は素晴らしいと思いますが、馬鹿にせずにもう少しラインベルガーにも目を向けて貰えればな~と思います。

 ラインベルガーという人は作品も地味ですが、その生涯も同時代の大作曲家からすればさらに面白みが無い生涯です。ですが60年生きて多くの作品を残した人ですから、それなりに波乱に富んだ人生でもあります。そんな彼の作品を演奏されますなら、もう少し彼の人となりを考察していただきたいものです。WebMasterには未だに彼がどんな人なのか、さっぱりわかりませんが。最後にマーティン・ウェイヤーが全集39巻第8部オルガン作品2序文に示した最後の一節を紹介したいと思います。

 

「ラインベルガーの再発見はオルガン作品だけではなく、彼の業績の全範囲を音楽愛好者たちに知らしめることが期待される。行われるべきことは多々ある!」