フランチスカ(ファニー)・フォン・ホッフナース

Franziska (“Fanny”) von Hoffnaaß (1831/Oct/18-1892/Dec/31)

ラインベルガー夫妻(1869)

 ラインベルガーを知るうえで欠かすことが出来ない女性が妻・フランチスカ(ファニー)・フォン・ホッフナースである。

 

 ジョドクス・ペルーガーは『ヨゼフ・ラインベルガーの生涯と作品から』にてこう述べている。「この注目するべき女性は詩作もし、歌い絵も描きピアノもたしなみ、時には作曲も行った。彼女は州立図書館で古い民謡の調べを調査した。ラテン語、スペイン語、イタリア語、フランス語そして英語も勉強した。オラトリオ、合唱、オペラ、歌曲の台本を書いた。古い教会をデザインした刺繍も作ったりした」。詩人・文学者のみならず多方面に才能を発揮し、現代でいえばマルチタレントと言ってよいだろう。彼女は多くの詩作をラインベルガーに提供し、文学的なアドバイスを与え、彼に大きな影響を及ぼした。

 

 彼女は1831年10月18日、バイエルン州の南東に位置するオーバーバイエルン行政管区にある、マクスルラインブルクにてイエーガーフーバー家に生まれた。9才年上の兄フリートリッヒがいる。出生時のフルネームはフランチスカ・ロマーナ・ウルスラ・イエーガーフーバーと言う。

Josef Resch (1819-1901) : Fanny Jägerhuber / 19才のころ。レッシュはファニーの絵画教師だった

 名前に関してはファーストネームにフランチスカまたはファニーとあるが、両者に明確な使い分けはない。前者が本名、後者が筆名とわけてもいない。プライベートでもホッフナースとラインベルガーをあまり使い分けていなのではないかとも思われる節がある。基本的には創作活動においてはホッフナースを名乗っている。また世俗独唱曲はすべてフランチスカ名義。合唱曲はファニー。舞台作品もファニーが使われている。そもそも英文解説には明確な定義はない。彼女自身が、ミュンヘンでは有名人だったからか、特に区別しなくても世間一般は納得していたのではないだろうか? 長いのでこの項ではファニーに統一する。

 

 10代のころから詩作を行っていた模様で、19才の肖像画には『ファニー・イエーガーフーバー』とタイトルがつけられている。ハイティーンのころには「ファニー」を使用していたことがうかがえる。

 

 1852年5月11日、20才の時、ファニーは2才年上の将校、ルートヴィッヒ・フォン・ホッフナースと結婚し、以後ホッフナース姓を名乗るようになる。1839年生まれのラインベルガーはこの頃13才。彼女は8才年上。ラインベルガーはミュンヘン音楽院に進学して半年ほどで、二人の出会いはまだまだまだ先のことであった。

 

 翌年3月に初めての子供、ベルタ・イフィゲニアが生まれる。しかし2か月半後の5月下旬に亡くなってしまう。ベルタ・イフィゲニアはファニーにとって最初で最後の子供であった。

 

 ファニーは多方面に才能を発揮する芸術家であった。詩人・文学者としても知られるようになっていたが、ミュンヘンオラトリオ協会で歌も歌っていた。1854年(56年、57年と諸説あり情報が錯綜している)、このオラトリオ協会にてラインベルガーは練習ピアニストとなる。1857年2人は出会うことになる。ファニー26才、ラインベルガー18才。この年の12月にオラトリオ『イェフタの犠牲(Jephtas Opfer)JWV 61』をタイトルロールをファニーが、ピアノ伴奏をラインベルガーにて演奏を行う。 

 

 ラインベルガーは彼女に対して特別な感情を抱くようになる。才色兼備の年上の女性。ティーンエイジャーになる前から家族と離れて暮らしていた彼にとっては、憧れの的だったのだろう。この時期習作としての歌曲が多数作られる。1857年から1860年の4年間で約20チクルスにのぼっている。一つはテノールのための作品であったが、残りはソプラノとメゾソプラノの為の作品。しかも後者の方が数が多い。ファニーの声域向けの作品である。そして1962年に出版した『7つの歌 作品3』をファニーに献呈されることとなる。ラインベルガーは生涯を通じて100曲の歌曲を出版したが、メゾ・ソプラノのための作品が多い。献呈先がワーグナー歌手だったり、男声歌手もいるので一概には言えないが、ファニーも歌うことを念頭においていたのは想像に難くない。

Josef Resch : 自宅の暖炉の前のファニー

 1865年3月、ファニーの夫ルートヴィッヒが結核で亡くなってしまう。傷心の彼女のためか、ラインベルガーはこの年メゾ・ソプラノとオルガンのための『4つの讃歌 作品54』に収録された4番に当たる「Ave Maria」を書き、彼女が4月に初演を行った。1番の「Sperent in te」が1866年の6月に、2番の「Nocte surgentes」が12月に、やはりファニーによって初演がなされた。3番にあたる「Prope est Dominus」は製作年・初演は不明だが、「ミーチ・ソプラノのために」と楽譜にファニー直筆のメモ書きが添えられていました。「ミーチ」とはラインベルガーがつけたファニーのあだ名であり、「メゾ・ソプラノ」とのごろ合わせになっている。この曲のテキストはもともとラテン語であったが、ファニーの翻訳によって、ドイツ語でも歌えるようになっている。

 

 ルートヴィッヒ・フォン・ホッフナースが亡くなって2年。この間どのようなやり取りがあったかは英文資料には記載がほとんどなく、あまりつまびらかには出来ない。だがピアノ連弾作品にいくつかの痕跡が残っている。いくつかの未発表連弾作品(どれも2手用のピアノ曲をアレンジしたか、または2手用に手直しして出版している)は彼女との仲を縮めるために作られている。この未発表作品のプリモは初心者向けに作られており、(右手だけなら)WebMasterでも弾けちゃうのではないかと思う。op.7の#2にあたる「舟歌」の表紙にはファニーの筆跡でこう書かれている。「テーガン湖の記念に / 1866年8月23日」と。1867年4月24日にファニーとラインベルガーはミュンヘンの聖アンナ教会にて挙式を行う。時にファニーは35才、ラインベルガーは28才であった。ピアノ連弾作品は二人の関係を象徴している。この年ピアノ連弾作品『タランテラ op.13』が作曲され、やはり夫婦でピアノに並んで弾けるように、プリモはファニーが弾けるようにと優しく作られている。6月10日は二人が出会った記念日である。

 

 ラインベルガーはこの結婚がことのほかうれしかったようで、故郷の長兄・ダヴィットにこう手紙にしたためている。

「お父さんから私が結婚するという話を聞いていると思いますが、彼女は私が愛してやまない、とても聡明な女性ですので、あなたもほかの家族も喜んでくれるでしょう」。またファニーが故郷・リヒテンシュタインでの市民権を得られるようにする手続きをダヴィットに依頼している。

 

 8歳も年上だったが、ファニーはラインベルガーを陰に日向に支え、その創作活動や教育者として専念できるよう心配りを図っていた。故郷リヒテンシュタインの家族とは頻繁に手紙でやり取りして交流を図っていた。ことに長兄ダヴィットとのやりとりは、ラインベルガーの活動を知るうえで貴重な資料である。また、頻繁に記録していた日記・自伝・帳簿によって、家庭を切り盛りしていた様子がうかがえ、いつどのような作品が誰から委嘱され、委嘱料がどのくらいで、どこで初演され、どこから出版されたのかよくわかる。

 

 またラインベルガーは20代終わりごろから、右手の人差し指に潰瘍ができてペンを持てなくなり、楽譜の清書などをファニーが代行したりした。原稿を出版社に送ったりその他諸々手続きを行い、彼が音楽に向き合えるよう、甲斐甲斐しくの面倒を見ていた。

夫の原稿に書かれたファニーの漫画

 ファニーは才能のある詩人であり、ラインベルガーに文学的・文法的にもアドバイスを与えてた。自身の詩作をラインベルガーに提供し、31曲の歌曲が出版されている。ほかの詩人の作品も推薦し作曲するように促したりもしている。

 

 例えば、1869年の4重唱または小規模混声合唱ための『水の妖精 作品21』。ヘルマン・リンクの詩を気に入った彼女は作曲するよう夫に促した。彼女が喜ぶうと思ったのであろう、ラインベルガーはすぐに作業にとりかかるのであった。そしてメランコリックなピアノ序奏から

 

「水の上、岸辺に寄せる絶え間ない霧

夜のとばり、波間から飛び立つカモメ

そして波はうねり

その甘い旋律にどのように挨拶しよう、

どのように逃れよう!

聴いておくれ、湖の水の妖精よ!」

 

初演時においては、感激のあまり詩人は舞台に登り作曲者と握手するのであった。

 

 1971年6月のある夕方、ファニーが戯れに五線譜を手に取ってミサ曲のテキストにメロディを付け出した。それを見ていたラインベルガーは興味を持ち、彼女が書いた原稿をもとにしてミサ曲の作曲に夢中になりだした。午後8時には「キリエ」が完成。そして約1年かかって『ヘ短調のミサ曲 作品62』となる。この曲は特徴があり、ソプラノ独唱とオルガンのための作品だが、児童合唱や女声合唱の斉唱で演奏してもよい。音域がさほど広くなく、メゾ・ソプラノのためと言ってもいいだろう。なにしろト音記号の五線の第一線にオタマジャクシは数度しか現れない。もちろんファニーが歌うためということを、念頭においていることは想像に難くない。

 

 ラインベルガーの代表作として20曲に及ぶオルガンソナタがあるが、そのうちの2番から17番まではピアノ連弾用バージョンが存在する。そしてその2番と4番に関してのアレンジはファニーが行っている(ラインベルガーの監修のもとだが)。

 

 ファニーはイタリア語から独訳した歌曲『イタリアの古い詩 作品128』、オラトリオ『クリストファロス 作品120』(この曲はラインベルガー存命中最大のヒット作となりヨーロッパ中で150回近く演奏された)や、クリスマス・カンタータ『ベツレヘムの星 作品164』、子供ためのジングシュピーゲル『魔法の言葉 作品153』の台本も手掛けた。ほかにも歌曲や合唱曲への自作テキストの提供・ほかの詩人作品の推薦がある。魅力的な声楽曲群はファニーの存在なしには語れない。

 

 ラインベルガー夫妻はおしどり夫婦であった。夏の休暇は故郷のファドゥーツや保養地のヴィルトバット・クロイトで一緒だった。リヒテンシュタインの首都なのに経済中心地ではないので非常に鄙びているファドゥーツを、ファニーはことのほか気に入っていた。都会で生まれ育った彼女にはとても魅了的な町であった。「ブレンターノの『ゴッケル物語』の舞台の楽園の様なところ。大きな岩の上に古びたお城が立ちまるでメルヘンの世界のよう」と記している。ファドゥーツでの滞在が合唱バラード『モーントフォールト 作品145』に結実する。

 

 当時鍵盤楽器のヴィルトオーゾと目されていたラインベルガだったが、元来病弱だったため同時代人のヴィルトオーゾたちのように演奏旅行は行えなかった。遠出をしたのはほとんど故郷のファドゥーツへの帰省ぐらいだった。しかしフィレンツェの音楽協会から交響曲の依頼を受けた時は、連れ立ってイタリア旅行に向かったのであった。1874年9月にフィレンツェ、ヴェローナ、ミラノ、ボローニャ、ベニス、トロントを汽車で旅し、この時の印象は『フィレンツェ交響曲 作品87』へと結びつく。時代を戻すが、『交響的絵画 ヴァレンシュタイン 作品10』の第2楽章「ティクラ」の主題はファニーへの愛の告白であった。

 

 普段の二人は互いにニックネームで呼び合っていた。ラインベルガーは「クルト(CurtまたはKurt)」と呼ばれ、ファニーは「ミーチ(Mietzi)」と、互いを呼び合っていた。夕刻の楽しみは二人でピアノに向き合い、連弾作品を引き合うのが二人の楽しみだった。6月10日の二人が出会った記念日は、ハッセの『Te Deum』を弾いて祝っていた。ラインベルガー家ではよく週末に小音楽会を開き、自作の室内楽の試演会を開いていた。その際振る舞われるファニーのコーヒーは、訪問者に好評であった。コーヒー目当てに、試演会に訪れる音楽家もいた。

 

 ラインベルガーは一流の教育者、世界的にも有名な教師と世間から認められた人でしたが、このような賛辞にも本人は「おどけて関心を示さない」ことに、ファニーは不満を持っていた。ラインベルガー自身は教師という仕事は、作曲というライフワークの時間を奪うもので、非常に負担に感じていた。

ファニーと犬 1890 ファニー最後の姿(実際に犬を買っていたのかどうかは不明)

 残念ながら二人の間には子供は授からなかった。でも二人は幸せだったはずだ。しかし1887年、彼女が56才の頃リュウマチ性の疾患を発症し、体調を崩すようになる。ラインベルガーを心配させまいと、当初はこのことを伏せていた。1890年、ラインベルガーはファニー台本によるクリスマス・カンタータ『ベツレヘムの星 作品164』にとりかかりだす。このカンタータは夫婦合作作品としては最大規模をほこり、かつ最後の作品であった。また、同年ファニーの詩による最後の歌曲集『海岸にて 作品158』が出版された。彼女の体調がすぐれなくなり、夏の休暇も故郷や保養地へといった遠出ができなくなっていた。1891年頃にはファニーは精神疾患(マーチン・ウェイヤーはうつ病であろうと述べている)の兆し表れたため、ラインベルガーは看病に専念するようになる。1892年『ベツレヘムの星』の初演がクリスマス・イブの日に執り行われることになった。しかしファニーの容体は重篤であったため、初演に立ち会うことは断念したのであった。

 

 のちにラインベルガーはヴィルトバット・クロイトで知り合った、ベルリン在住のペンフレンド、ヘンリエッタ・ヘッカー宛ての手紙にその夜のことをしたためている。(このころファニーが臥せっていることにより、ラインベルガーの身の回りの世話をするため、故郷のファドゥーツから姪のオルガがミュンヘンの自宅に来てくれていた)

 

 『私の前に金色の星印がついた白い羊皮紙で束ねられた本があります。それはファニーがテキストを書いた私の「ベツレヘムの星」のボーカルスコアです。意識ははっきりしていましたが、心臓の水腫で深刻な病状でした。彼女は校正刷りが上がってくるの楽しみにしていました。スコアは彼女が見たいと思っていた姿で遅れずに到着し、クリスマス・イブに、彼女の枕元に置くことができました。シスター・マーシーとオルガは枕元に小さなクリスマスツリーを置き、そのロウソクに火を灯してくれました。彼女がことのほか好きだった、"羊飼いの合唱"と"マリア様のお姿"を、彼女がスコアを読むために、私は隣の部屋で優しく引いてあげなければなりませんでした。(私たちはその日の夜まで持たないと覚悟していましたが、医者も驚いたことに6日間もちました)。彼女は弱々しい笑顔をしながら、星を指さして言いました「すぐに…すぐに…すぐそれ(スコア)を見ます」と。彼女は自分の胸に本を押しつけて弱々しく寝入ってしまいました。オルガはクリスマスツリーを部屋から持ち出しました。泣いていました。それが1892年の私たちのクリスマス・イブでした。私自身が聴くことがかなわなかったこの2回の演奏ついてルツェルンの指揮者から知らせを受けとったことを、今思い出しています』

 

 一週間彼女は持ちこたえたが、1892年の大晦日息を引き取るのであった。ラインベルガーはファニーがことのほか愛した、ラインベルガーの故郷・ファドゥーツの地に彼女を眠らせてあげたかったが、その望みはかなわず、ミュンヘンの南共同墓地に埋葬となった。

Giovanni Sassoferrato (1609-1685) 『聖母子像』

夫妻の居間に飾られていた絵画

 ファニーが亡くなってからは、ラインベルガーの晩年は孤独な人生となっていた。翌年1893年には次兄のペーターも亡くなっている。故郷の兄弟・親戚も姉のヨハンナを除いてほとんど亡くなっていた。親しい友人・同僚たちも亡くなっていた。最晩年には諦めたように友人にこう綴っている「昨今、人はすぐに死んでしまう。ある者はすでに長い間死んでいるが、それに気がついていないだけだ」。またかつての教え子たちも、ラインベルガーと袂を分かち、ワグネリアンとなる者が多くあった。

 

 一見創作活動も旺盛、バイエルン王室からの叙勲(1895年)、ミュンヘン大学哲学部からの名誉哲学博士号授与(1900年)と栄誉を極めていく。名誉博士号の返礼として送った『大学序曲 作品195』は6つのテーマによるフーガが展開されるという、当時の対位法の大家と認められていた彼の面目躍如となる作品であった。彼の創作の衰えを感じられない。ただファニーというよき記録者が亡くなったため、いくつかの作品では制作過程が不明なものある。

 

 教職は続けていたが、1894年教会音楽の浄化・簡素化を是としていたセシリア協会からの嫌がらせに等しいクレームに嫌気をさしたのか、すでに宮廷楽長の地位を退いていた。

 

 1896年、かつてラインベルガーがオルガニストを勤めていた、ミュンヘンの聖ミヒャエル教会にファニーの遺言でオルガンが寄贈され、ラインベルガー自ら検品を行った。最初に音を鳴らしたとき、どんな思いだったのであろうか。

 

 ヘンリエッタ・ヘッカーとの文通が心の支えだったが、彼女が結婚することを知り交際をやめてしまう。ランベルガーは2人のやり取りを処分してほしいと望んでいたのが、彼女はあえて残したため貴重な資料となる。ヘッカーに対する感情はいかばかりのものであったのだろうか?

 

 ファニーが亡くなって9年、ラインベルガーは1901年10月に健康上の理由で、生涯をささげた音楽院の教職を退くのであった。そして約6週間後の11月25日。姪のオルガに看取られながら息を引き取った。彼はミュンヘンの南共同墓地で愛する妻、ファニーの隣に埋葬され、11月28日に執り行われた葬儀の際には『4つの思い出の曲 作品24』の1番、『Staub bei Staube』が歌われた。12月11日にミュンヘン・オデオンホールでの追悼演奏会ではオペラ『7羽のカラス 作品20』前奏曲、『オルガン協奏曲2番 ト短調 作品177』などが演奏された。

 夫妻の墓は第二次世界大戦中、ミュンヘンの大空襲のために破壊されてしまった。同時にファニー遺言で聖ミハエル教会に寄贈された大オルガンも、教会ごと失われてしまった。戦後、1949年、夫妻の遺骨は故郷のファドゥーツに移設され市内の墓地に仲良く埋葬されたのであった。ラインベルガーの希望は妻を生まれ故郷に眠らせてあげることで、やっとかなったその願いは、彼女も喜んだであろう。やっと二人は安住の地に落ち着いたのであった。

1903年10月にミュンヘン南墓地にハインリッヒ・ヨープストによって建てられたラインベルガー夫妻の墓 : 甥のイーガンによるデザイン(ウォルター・カウフマンによる1920年の撮影)