参照される方々へ。弊サイトのデータをもとに解説を書かれる場合は出典として弊サイト名をお記し下さい。

Orgelsonate Nr. in b-moll, op.142

オルガンソナタ第9番 変ロ短調 作品142

Praeludium; Romanze; Fantasie und Fuge

アレクサンドル・ギルマン (Alexandre Guilmant, 1837-1911)
アレクサンドル・ギルマン (Alexandre Guilmant, 1837-1911)

Via Carus 50.238 p.152
Via Carus 50.238 p.152
via BSB Mbs.ms. 4612
via BSB Mbs.ms. 4612

 『オルガンソナタ 9番 変ロ短調 作品142』は1885年の5月に作曲された。全3楽章の下書きはそれぞれ14日、20日、22日に第一楽章から順に書き終わっている。清書は同月24日に完成。ピアノ4手連弾リダクションは翌6月2日に完成している。出版はライプツィヒのフォアベルクからオリジナルのオルガン版は1885年9月に見本本を送り(4日)刊行されたが、ピアノ4手連弾リダクション版は翌年1886年2月まで日の目を見なかった。オリジナルオルガンバージョンは9月5日にファドゥーツの聖フローリン教会にて作曲者自身による初演が行われているのが、直筆清書表紙の書き込みからわかる。

 

 作曲の契機は出版社のフォアベルク社によるオルガン作品の依頼に端を発している。

「オルガンのための商品を書いていただけませんでしょうか。またオルガンソナタとは別に、個別の楽章の出版をお許し願えませんでしょか」(1885年4月2日付け)。この手紙の余白にファニーは、ラインベルガーが復活祭の日曜日にもかかわらず、すぐに作曲に取りかかってことを、そして「オルガンは彼の愛する楽器です」とコメントしている。(2021/Oct/26にこの段落を追記)

 

 同曲はフランスの著名なオルガニスト、アレクサンドル・ギルマン(1837-1911)に献呈された。ギルマンはラインベルガーより2才年上の同時代人でかつ似通った経歴であったため、非常に馬が合ったようである。彼は1837年3月12日にブローニュ=シュル=メールに生まれた。彼もティーンエイジャーになる前から父親のオルガン助手を務め、16才から地元の教会のオルガニストに、また20才でブローニュ音楽院にて教鞭を執った。ギルマンはベルギーブリュッセルにてシャルル・マリー・ヴィドールも教えたジャック=ニコラ・レメンス(1823-1881)に師事し、J.S.バッハのドイツオルガンの伝統を学んだ。ただしレメンスはその師匠アドルフ・フリードリッヒ・ヘッセ(1809-1863)をして「非常に平凡な才能」と非難されるレベルで、マーチン・ウェイヤーはホミリウス - ヒラー - ニコライ - ヘッセ - [レメンス] -ギルマン の系統は「真のバッハの伝統に関するフランス人の主張は、事実上支持できない」と言っている(ただしヴィドールやギルマンの非凡さは否定はしていない)。

 

 ギルマンは1871年から名門聖トリニテ教会のオルガニストに就任(1901年まで30年務めた)。1894年からヴァンサン・ダンテらとともにパリ・スコラ・カントルムを設立。97年にはヴィドールの後任でパリ音楽院オルガン科の教授に就任(この時地位を争ったのはヴィエルヌだった)。その門下にはマルセル・デュプレを筆頭にそうそうたる生徒を育てた。

 

 幼少の頃からオルガニストをしかも最終的にはトップクラスの教会で勤め、同じジャンルの作品を残し、教師としても数多くの後進を育てた点において二人はとても似通っている。違いはラインベルガーは体調のために鍵盤奏者としての道を早々と諦めたが、ギルマンは1878年からパリ・旧トロカデロ宮殿を拠点として、頑強なヴィルトオーゾの道も進んでいることだろう。

 

 ギルマンはラインベルガーの作品を愛好し、確認されているだけでオルガンソナタ8番を演奏し褒め讃えており、オルガン協奏曲1番はパリ初演を行った。おそらく他の作品も手がけているだろう。二人の間で面識があったかは確認できていないが、頻繁に手紙のやりとりがあったようである。ラインベルガーは自作を取り上げ、フランスに紹介してくれるギルマンに、印刷初版楽譜冒頭で「Mr. A. Guilmant in Paris.」と記してオルガンソナタ9番を献呈を行った(HerrでもM.でもなく本当にMr.と書かれている)。ラインベルガーのオルガンソナタは交響曲を志向している点から、ギルマンを通してヴィドールやヴィエルヌなどオルガン交響曲楽派への影響は否定できない。

 

ギルマンはラインベルガーへ礼を述べている。

「尊敬するあなた様!

あなたの最新のオルガンのためのソナタ(作品142)の献呈を、私はとてもありがたく思います。私はこの美しい作品を拝見し、私のコンサートで大変喜びを持って演奏いたします。親愛あるあなた様に一言言わせてください、あなた様の第8ソナタホ短調をいかに私が愛していることか。献呈していただいた作品のように、それは素晴らしい作品です。来年の春パリのトロカデロ宮殿ですぐに私はコンサートを再開します。昨年とても好評だった、あなたの素晴らしい協奏曲を再演奏するつもりです。そのときあなたが私に書いてくださったカデンツを含めます...」[1885年10月2日付]

 

1870-71年の普仏戦争によるドイツのフランスへの優越性を鑑みると、ラインベルガーからギルマンへの献呈はあり得ないことだという。ここにラインベルガーは決してリヒテンシュタインの国籍を捨てず、「ドイツ」という枠組みにとらわれない、国際人としてのアイデンティティーを持っていたことがうかがえるという。

 

 ギルマンはラインベルガーにヘンデルのオルガン協奏曲風のオルガンとオーケストラのための作品作曲を提案し、『オルガンと弦楽のための組曲 ハ短調 作品149』作曲の契機となっている。また70才過ぎても頑強であったギルマンは1900年代のアメリカ演奏旅行でオルガンソナタ12番を12回、「Vision 幻影」(作品156の5)を14回演奏し非常に好評を得ている。

 

 ウィーン在住の友人マイヤー夫妻にもソナタ9番の見本本を送り、妻ミラからフランチスカ充ての手紙でピアノでソナタを弾いてみたという報告が届いている。

 

「あぁ、なんて可愛らしいソナタでしょう! 人は忍耐が薔薇を生み出すことを再び見ます。昨日の晩、私たちは続けて4回ソナタを演奏しました。ロマンスをもう一度行い、そのあとは何も聴きたくありませんでした。」