10曲のトリオ 作品49
Zehn Trio op.49
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- Andante (g-moll)
- Moderato (C-Dur)
- Adagio (a-moll)
- Allegretto, quasi Andantino (Des-Dur)
- Con moto (gis-moll)
- Alla breve (Es-Dur)
- Andantino non troppo (A-Dur)
- Moderato (c-moll)
- Moderato (G-Dur)
- Andante molto (F-Dur)
一般的にラインベルガーはオルガニストとしての経歴とともに、多くのオルガン音楽の作曲家として認識されているが、かなり誤解があると思う。まず、彼のオルガン作品は一部のオルガンソナタ、たとえば4番 イ長調と 8番ホ短調、ヴァイオリンとのアンサンブル作品以外は現代の職業オルガニストも認識していない。また7才から故郷の教区教会でオルガニストを勤めたことが原点であるから、ミュンヘンに移った後も聖ルードヴィッヒ教会(無給助手1853-1857)、聖カイエンタン教会(1857-1863)、聖ミハエル教会(1863-1867)と歴任し、彼の青春期はオルガンとともにあったことは否定できない。オルガンはラインベルガーの原点ともいえる。しかし、習作期、彼自身が作ったオルガン作品「三重フーガ ヘ短調 JWV3(1853)」,「3つの前奏曲とフーガ JWV10, JWV13, JWV16(3曲とも1854)」ぐらいしか見当たらず、習作期のオルガン作品でフーガの技法を習得しようとしたかもしれないが、いずれも重要ではない。全集からもれている1858年の『4つの初期のオルガン作品』JWV151も重要な作品ではない。
彼の初期のオルガン作品で注目しなければならないものは、当時「ワイマール大公国総教育協会」の名誉総裁でドイツ人オルガニストのJ. G. トゥプフェルのためにA.W.ゴッシャルクとC.ミュラー=ハルツンクが編集し、1867年に出版した「オルガニストのためのアルバム ヨハン・ゴットォプ・トゥプフェル氏の祝祭披露」への、最初の作品提供作品、『ヘ短調のフーガ WoO10』だ。この小品を外部からの依頼をうけるまで、奇妙なことに上記の3つのミュンヘンも重要な教会のオルガニストを勤めていた約13年の間にオルガン作品を手がけてはいない。歌劇、交響曲、宗教曲、世俗合唱曲、ピアノ曲、室内楽と多岐にわたるジャンルを手がけていたが、オルガン作品に立ち戻るには、もう一度外部からの刺激が必要だった。
かつてのオルガン奏法の師、ゲオルク・ヘルツォークより、彼の教科書教材のための教材作成の打診を受け、1868年10月5日から8日にかけて8曲のトリオを作曲を行う(マーチン・ウェイヤーは7曲と書いているが、作られたのは8曲である。ただし8番はのちに差し替えられているため、残された分として7曲と言っているのだろう)。
この2ヵ月後、ラインベルガーは後のライフワーク、オルガンソナタ群の第1番、『ハ短調 作品27』に取り掛かり、突如自身の原点と一言っても過言ではない。オルガン作品に取り掛かることになる。
この原点回帰は、単に1868年のヘルツォークの依頼だけが刺激となったのではないだろう。前年の1867年に再建され、王立音楽院のオルガンと作曲の教授に就任。また同時に聖ミハエル教会のオルガニスト職の辞任。さまざまエレメントによるのだろうが、ひとつのターニングポイントになっているのが2つの外部からの刺激に違いない。
その後、1870年に彼の妻フランチスが日記に書いている
「1870年11月26日
クルト(彼女が名づけたニックネーム)は二つの新しいオルガントリオを作曲した。なぜなら8曲をヘルツォークの教科書で使うからです。彼はこの目的のために1曲ではなく2曲作曲した。」
なおフランチスカは26日のエントリーに書いているが、清書完了の日付は24日にも見える。また彼女は8番の差し替えに気づいていない。もともと8曲のトリオは1曲差し替えで、3曲追加され、全10曲の『Zehn Torio op.49』としてまとめあげられた。ラインベルガーは初めて作品番号つきの小曲集として、1871年ライプツィッヒのフォアベルクから刊行を行った。
2019/Jun/08