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チェロソナタ in C, op.92

Sonate für Violoncell und Pianoforte op.92

  1. Non troppo allo
  2. Canzonetta
  3. Finale. Vivo

 『ヴァイオリンソナタ 変ホ長調 作品77』(1874年2月)の1年半後、ラインベルガーは『チェロとピアノのためのハ長調のソナタ 作品92』を完成させた。直筆楽譜の最後には「1875年12月3日に完成」と記されている。何が彼にこの作品を思い起こさせたのかはわかっていない。

 

 1875年7月にフローレンティーナ四重奏団とその第一ヴァイオリニスト、ジーン・ベッカーのために書いた、彼自身の『ハ短調の弦楽四重奏曲 1番 作品89』によって、チェロのための何かを書く気にさせたのではないかと言われている。同年12月13日に、弦楽四重奏のための『主題と変奏 作品93』を完成させており、チェロソナタは弦楽四重奏のための2つの作品がブックエンドのように挟まれている。

 

 チェロソナタは1876年4月19日にミュンヘンにて初演された。初演の演奏者は両名ともラインベルガーの王立音楽学校の同僚でミュンヘン宮廷管弦楽団のチェリスト、ヨーゼフ・ウェルナー(1837-1922)とピアニストのハンス・ブスマイヤー(1853-1930)。作品は聴衆から好意的に受け入れられ、批評家もチェロの新しいレパートリーになると評した。おそらくこのときのリハーサルにおいてだと思われる変更が、チェロパートにいくつか加えられている。

 

 翌1876年3月、ラインベルガーは以前に『弦楽四重奏曲 1番 ハ短調 作品89』を提案したオッフェンバッハ・アム・マインの出版社ヨハン・アンドレにチェロソナタと『弦楽四重奏曲 1番 ハ短調 作品89』を提供した。しかしながらヨハン・アンドレはマーケット上の理由により、弦楽四重奏の出版を断り直筆譜を返却してきた。これに怒ってしまったラインベルガーはチェロソナタも引き上げ、「どこか他の」出版社にゆだねるとヨハン・アンドレに通告するのであった。(『弦楽四重奏曲 1番』はライプチッヒのロイッカールトから出版されている)

 

 チェロソナタは扱う予定であったヨハン・アンドレは驚いてしまい、数度の手紙のやりとりによって、チェロソナタの出版を認め、同時にヴァイオリンへの編曲を提案し出版にこぎ着けた。なおヨハン・アンドレはのちに『ヴァイオリンソナタ 2番 ホ短調 作品105』でも同様に出版を断ったため、最終的に両者は決別している。

 

 元来ラインベルガーは自作の演奏や普及にあまり関心は示していなかった。だが、1876年アメルスフォールト(オランダ)でのフローレンティーナ四重奏団による『弦楽四重奏 作品89』の初演とその後の彼らのツアーにより、彼の名前と評判が急速に広くヨーロッパに普及していく様を目撃している。

 

 そこでチェロソナタはラインベルガーの生徒であった女性ピアニスト、ソフィー・メンターとダヴィット・ポッパー夫妻に献呈された。ソフィーは当時ショパンとリストの解釈の第一人者であった。ポッパーが1876年にウィーン宮廷歌劇場の首席奏者のポジションを晴れてヨーロッパツアーに進出していた。同様にこの献呈により、2人のヴィルトゥオーソによって急速に彼のチェロソナタがヨーロッパに知れ渡ることを期待したものだった。ただし夫妻が実際にチェロソナタを演奏したかどうかはわかっていない。