ピアノ三重奏曲 Nr.2 in A Dur, op.112

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復刻版のCarus-Verlag 50.112/01に掲載されている初版表紙画像
復刻版のCarus-Verlag 50.112/01に掲載されている初版表紙画像

Klaviertrio Nr.2 in A-Dur, op.112

  1. Allegro
  2. Andantino espressivo
  3. Tempo Minuetto (moderato.)
  4. FINALE. Allegro con fuoco

「なんと全てにおいて私を魅了する、J. ライベルガーによる新しい作品、手稿譜によるトリオ イ長調は私をとても喜ばせ、最後の楽章を終えた時、これには私も疲れ果ててしまい集中することが出来なかった...作品全体は新鮮で、自然な印象を受け、それは開放的で心からの方法で聴くことが出来る。それは決して打ち負かそうとするものではない...」

 

 ラインベルガーの『ピアノ三重奏曲 2番 イ長調 作品112』の世界初演に立ち会い、1878年11月16日付の日記にこのように絶賛したのはラインベルガーの弟子の中でも3本の指の中に入る高弟、エンゲルベルト・フンパーディンクであった。ミュンヘン音楽院にてラインベルガーの下で学んでいた彼だが、体系的で無味乾燥とした対位法の授業で音楽への興味をなくしたり、ワーグナーの虜になってた。この時代の多くの弟子は旧態依然とした師を馬鹿にしていたが、フンパーディンクには冒頭のようにトリオの質を認めることが出来る客観性があった。

Rheinberger Piano Trio No. 2, Op. 112 - Arts at Noon, 2/10/15

Halla Hilborn, violin/Brian Wu, cello/Rhys Burgess, piano

第2楽章を


Carus-Verlag 50.112/01
Carus-Verlag 50.112/01

 ラインベルガーの室内楽に対する興味は、のちのオルガンや宗教曲からすれば割合は少なく、一見こだわりがない様に見受けられる。197曲出版した作品の中で、室内楽は18作品に上るだけである。またその創作時期は一時期(最も集中して作られたのは1870年代の10年間)に固まっているようにも思えるが、実際は生涯にわたっている。出版した作品は1862年(23歳)の『ピアノ三重奏曲 1番 ニ短調 作品34』を皮切りに、彼が亡くなる3年前(1898年・58歳)の『ピアノ六重奏曲 作品191b』までに及ぶ。その中で、自身で最も愛着があったオルガンとピアノのためのソナタを除いた特定のジャンルにこだわったのが「ピアノ三重奏曲」であった。

 

 ラインベルガーが最初に故郷を離れて師事した音楽教師、フィリップ・シュムツァーは優れたチェリストで、幼い弟子は彼から室内楽の手程を受けていた。室内楽分野の最初のきっかけがここに提供された。ミュンヘン音楽院を優秀な成績で卒業した後もラッハナーの個人指導を受け、彼の作品目録には未発表のままの20曲の室内楽が含まれている。その中には16歳ごろに作曲した、自身のピアノ演奏能力に合わせたピアノパートに技巧を要する変ホ長調のピアノ三重奏曲も含んでいる。成人してオルガンとピアノを除いて、4曲もの作品を出版しているのは、このジャンルしかない(それでも第1番の出版から第2番着手までは8年、初稿から数えれば16年の歳月を必要としたが)。『ピアノ三重奏曲 2番 イ長調 作品112』は1878年9月30日から10月13日に下書きを行なわれた。ラインベルガー自筆の清書表紙には、1878年9月24日から10月17日にかけて作曲したと書かれている。

 

 ラインベルガーという人の特徴を一つ述べると、自己の作品に「自叙伝」的要素を残さない人である。彼はどんなに経済的に困窮していても、愛する人たちを亡くした時も、病気で苦しかったとしても、仕事上にその痕跡を残そうとはしなかった。この時期の彼は右手の指に発生した潰瘍による、ただれ除去の不完全な手術が状態を悪化させ、ピアノ演奏を断念しなければならない状態に陥っていた。書き物をすることすら困難な状況でもあった。にもかかわらず、1878年、彼はこの時期相当数の創作物を生み出している。8声の『変ホ長調のミサ曲 作品109』、『シラーのデメトリウスのための序曲 作品110』、『オルガンソナタ5番 嬰ヘ長調 作品111』、『左手のためのピアノ練習曲 作品113』、「1000の困難」を伴って年末に完成した『ピアノ五重奏曲 作品114』。そして秋に『ピアノ三重奏曲 2番 作品112』を作曲している。

[ BSB Mus.ms. 4739 b-2 ] より。直筆下書き。右上に「Sonate」を「Trio」に修正している。左下に「Finale des Clavierquintetts」との書き込みがわかる
[ BSB Mus.ms. 4739 b-2 ] より。直筆下書き。右上に「Sonate」を「Trio」に修正している。左下に「Finale des Clavierquintetts」との書き込みがわかる

 この頃妻フランチスカは夫の理想像を作り上げようと必死であった。彼女がまとめた作品目録(これは彼女の逝去により完成が数年遅れる)にほとんどの場合、清書の開始日と完了日だけを記し、作品が実際よりも早く書き上げ、作曲家は迅速かつ楽々仕事をこなす作曲家という印象を与えようとしていた。実際はラインベルガーの職人技はレベルが高く、下書きを書く必要性などほとんどない状態でもあったのだが、その下書が様々事を我々に伝えてくれる。

 

 1878年9月に作曲を開始した際、当初は五線の2行上に「ソナタ」と題していた。直ぐに取り消し線が引かれ、「トリオ」と書き直されている。当初は「ピアノソナタ」を念頭においていたが、15小節目から「トリオ」に変更されだしている。ページの終わりの部分で下から2段めの上に「Allegro non troppo」と書き、「ピアノ五重奏のフィナーレ」を下書きしている。件のイ長調のトリオの下書きは数回中断しており、9月21日の日付の箇所ではピアノ伴奏部旋律とオルガンのアンダンテで始まっている。トリオのフィナーレのための数小節のアイデアが含まれているが、直ぐに第一楽章のスケッチが続いている。第2楽章・第3楽章のMenuettoとAndantino(浄書で「Andantino espress.」とされた)が続く。この2つの楽章は清書にて順番を逆転された。清書のMenuettoの終わりに「subito ただちに」と指示があったが、印刷初版では削除されている。これらに見受けられるように、きちんとした下書きがなくても清書を書き始める段階では作者自身はすでに頭の中で完成図を見据えていることを示している。 

直筆ファクシミリ。Carus-Verlag 50.290。p.24-25。第2楽章から第3楽章にかけて。この画像だとわかりづらいが、第2楽章終わりに「subit」と書かれている
直筆ファクシミリ。Carus-Verlag 50.290。p.24-25。第2楽章から第3楽章にかけて。この画像だとわかりづらいが、第2楽章終わりに「subit」と書かれている

 清書の表紙にはラインベルガー自身によって、1878年9月24日から10月17日にかけて作曲したと書かれている。自叙伝的要素が彼の作品には反映されていないが、その筆致は力強く揺らぎがない。当時右手の激痛にさいなまれていたはずなのにその兆候は全くわからず、その私生活を垣間見せるようなことは決してない。全く修正の必要のない清書は書き込んでいる間、作曲家がどれほど明確に自己作品を思い浮かべいたかを示すだけでなく、原稿の美的見栄えも現してる。その見事な筆致に、この2番のトリオは直筆清書のファクシミリ版が発売されている。ラインベルガー自身によって書かれた、ピアノパート部分に指使いの指示(3カ所? 他写譜屋による2つの弦パート譜への書き込みからも)、フンパーディングが立ち会った世界初演のときにこの清書が使われたと推測される。

 

 ピアノ三重奏曲は完成の翌年、1879年にライプツィッヒのキストナーから出版された。同曲はウェストファリア出身で1850年からウェストミンスターで暮らしている、ピアニストで指揮者のチャールズ・ハレ卿 (1819-1895) に献呈された(献呈は直筆稿ではなく印刷楽譜が送られた)。彼は今も続くハレ管弦楽団を設立し、1876年ラインベルガーの『ワレンシュタイン交響曲 作品10』からスケルツォ「ワレンシュタインの陣営」と、『ピアノ協奏曲 変イ長調 作品94』を「満足な成功を収め」て演奏していた。ハレは献辞を非常に喜び、返礼にロンドンで演奏する機会を持つと感謝の意を述べた。

 

 初演で好評を博し、奉献者にも温かく迎えられたこの作品は1862年に作曲しその後改訂した『ピアノトリオ 1番 ニ短調 作品34』と比較して格段の進歩をとげている。ラインベルガーの数少ない個人的な生徒、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー (1886-1954)は、元教師の創造的成果を次のように特徴づけている。「彼にとって作曲の自然さは最高の方法でした。それは声部書法、構造の形式、表現の自然らしさ」。コンパクトな構造の『ピアノ三重奏曲 2番』はラインベルガーの熟達した技量を裏付けており、彼の室内楽作品で確認できる。

 

 ラインベルガーは作曲家と教師として顕彰と栄誉に預かったが、時間が彼を素通りしていることを自覚していた。自己の作風が時代遅れである事を知っていた。「昨今、人はすぐに死んでしまう。ある者はすでに長い間死んでいるが、それに気がついていないだけです」と1900年12月9日付で晩年の文通相手、ヘンリエッタ・ヘッカーに諦めた様な手紙を書いている。約1年後彼は亡くなり、室内楽作品は忘れ去られていく。