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ヴァイオリンソナタ Nr.2 e moll, op.105

  1. Allegro non troppo.
  2. Andante molto.
  3. Finale. Allegro non troppo.

 この作品の作曲の動機や開始日はわかっていない。第一楽章のスケッチの終わりに1877年7月13日と記入してある。しかし第二楽章のスケッチ完成が9月16日、第3楽章は9月25日となっており、浄書は翌26日に完成してる。第一楽章の完成から、2か月ほどタイムラグが発生してる。ラインベルガーの作曲の傾向として、頭から一気呵成に書き進め、ア・カペラミサ曲なら2週間ぐらい。室内楽なら1か月ほどで書き上げるが、これは非常に珍しい事象である。

 

 このタイムラグの発生は、2つの原因があることが考えられる。まず第一にこの期間は夏の休暇時期に当たり、筆を抑える傾向がある。加えて、7月26日にCarl von Perfall男爵(宮廷劇場監督。ミュンヘンオラトリオ協会の創設者・指導者でラインベルガーはそのタクトの下でコレペティートルを務め、のちにそのポストを引き継いだ)を介して、フランツ・ヴュルナー(コーユーブンゲンの作者として有名)の後任として諸聖徒宮廷教会の音楽監督としての宮廷楽長のポストの打診を受けていた。8月4日にこの件を受諾している。9月にバイエルン王・ルートヴィッヒ2世(1845-86)直々によって宮廷楽長に任ぜられる。38才、この時ラインベルガーは自身のキャリアの頂点に到達したことになる。この二つの事象が作曲の手を休めたこととなる。

 

 この曲は作曲家にとって、もう一つ珍しい現象が発生している。当初第一楽章のスケッチには「トリオ」と書かれていたが、取り消し線が引かれその下の行に「ヴァイオリンソナタになった」と書き込まれている。作曲時には一気に書き上げるのに、曲のカテゴリーの変更、つまり一種の逡巡が見受けらるのも珍しい。またこのことは生涯にわたって4曲のピアノ・トリオを書いた作曲家にとって、そのカテゴリーにこだわりがあったこともうかがえる。

 

 当初チェロ・ソナタop.92出版したオッフェンバッハ・アム・マインの出版社ヨハン・アンドレに出版を打診していたが、マーケティング的判断により出版は断られ自筆稿は返送されていた。結局は自筆稿はライプツィヒのキストナー社に送られ、同社から出版されている。作曲家は気分を害した模様で、その後ヨハン・アンドレから作品が出版されることはなかった。

 

 初演は1878年8月8日にミュンヘンのPalais Portiaにある博物館の大広間にて行われた。演奏はフランツ・ブリュックナーによるヴァイオリン、ピアノはラインベルガーの下でオルガンと対位法を学んだヨーゼフ・ギールルによって執り行われた。またこの曲はフランツ・ブリュックナーに献呈をしている。 

クラリネットソナタの初版楽譜表紙
クラリネットソナタの初版楽譜表紙

 ヴァイオリンソナタ2番は、後にクラリネットソナタ として編曲され作品番号として105aを与えられている。イルメンやワンガーはそれぞれ16年後の1893年に編曲したと同定しているが、これにはたしかな根拠がない。F. ホフマイスターのカタログ11巻にて、1892年から1897年の間であることは確認が取れているだけである。

 

 編曲版の自筆稿は現存していない。この編曲に対してどのくらいの意気込みで取り組んでいたかは定かではない。ヴァイオリンソナタ1番のように、チェロではなくクラリネットにした理由はわからない。そもそもラインベルガー自身の手によるものかどうかも定かではない。出版社側で編曲・販売した可能性もある。編曲の際、B管のクラリネットに適応するため、ホ短調から変ホ短調に移調されている。出版したキストナー社は作曲家との良好な関係の維持をのぞんでいたはずなので、移調を行ってまで彼の同意のない改変はしていないと考えられている。