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弦楽五重奏曲 in a, op.82

弦楽五重奏曲冒頭部分 via BSB Mus. Ms. 4557
弦楽五重奏曲冒頭部分 via BSB Mus. Ms. 4557

Streichquintett in a op.82

  1. Allegro
  2. Adagio molto
  3. Scherzo: Vivace
  4. Finale-Rhapsodie: Non troppo mosso

 1870年のピアノ四重奏曲以後、ラインベルガーは室内楽の製作を一旦中断する。1874年2月のヴァイオリンソナタ1番の作成に刺激されたのか室内楽を作成を再開し、以後1886年の『弦楽四重奏曲 2番 作品147』までを「室内楽の10年」と呼んで差し支えないだろう(いや12年ありますけどね^_^;)。ただし厳密な四重奏の四声の形式を意図的に避け、弦楽五重奏から開始することは少々驚くべきことではないだろうか。

ヴァイオリンパート譜。フィナーレの修正箇所。赤鉛筆の印までがビューラーの筆跡。以降は明らかにラインベルガーの筆跡になっている。このように全パート修正が施されている
ヴァイオリンパート譜。フィナーレの修正箇所。赤鉛筆の印までがビューラーの筆跡。以降は明らかにラインベルガーの筆跡になっている。このように全パート修正が施されている

 妻フランチスカはラインベルガーの仕事の進捗状況を日記にこまめに記録しており、1874年5月29日に「クルト(ラインベルガーのニックネーム)は弦楽五重奏を作曲しだし」第一楽章を完成させた。第二楽章は6月4日に「ほとんど終了」。第4楽章は6月25日の夕方「…今日彼は弦楽五重奏曲を完成させた」と描写している。作品は「彼の写譜屋、クール出身のドクター・ビューラー」にいったん渡されパート譜が作成されている。ラインベルガー自身は締め切りが差し迫っていたためか、満足のいく出来ではなかったようで、出版社フォアベルク社に送る前にビューラーによる最終楽章のパート譜279小節以降を直接修正している。

 

 作品はラインベルガーと親しく友情を育んでいた、ウィーン在住の音楽史家、アウグスト・ヴィルヘルム・アンブロスに献呈された。アンブロスは1874年10月28日付の手紙で謝辞を述べている。同年12月29日ミュンヘンにてベンノ・ワルター四重奏団により初演された。

 

 1875年前半には批評がだされ、NZfM no.71 (7 May 1875, pp. 189-190)に掲載されたA. Maczewskiによる署名記事では自由な即興にむかう傾向を説明し、「四重奏曲(または五重奏曲)の歴史的に認められた枠組みの範疇外であり」、「表現に富む活力、信念の暖かさに染められ...力づよい相互接続」と作品を賞賛した。